2011年09月29日
学会発表を通して考えたこと(2011生活指導学会)
日本生活指導学会第29回大会 発表原稿要旨
http://edush.ti-da.net/e3729913.html
↑の続き。
箇条書きになってしまいましたが、自分の記録という感じでの更新ですので、ご容赦を。
日本生活指導学会第29回大会・発表レジュメは以下からどうぞ。
http://www.geocities.jp/quinella/2011jasg-hirochi.pdf
フロアからの指摘や師匠からの指導などを含めた、今後の(修論)課題として考えたこと。
・前提として
―社会問題(生きづらさの問題)およびバウマンが述べている社会理論をざっくりと捉えすぎている
―テーマ(立論)がどこにあるのかが不明確
―実践に即したり落としていないので、理論が抽象的なものにとどまっている
・バウマン理論の精読
―コミュニティ論を公・共・私の観点から整理すること
―古いコミュニティと新しいコミュニティそれぞれの論じている部分を区別すること
―ペグ・コミュニティの具体例を明らかにすること
―ペグ・コミュニティが公的なものへと導き出すためにはどうしていくか(だからこそアソシエーションを導入してみたのだが、論として浅く、突っ込まれていた)を明確にすること
―コミュニティ理論がバウマンのなかで重要という結論を導き出していくこと
・生活指導においての公・共・私の関係を捉えること
以下は、上記のことに加えて思ったこと。
・「生きづらさ」に関して
私は、バウマン理論にしたがって、リキッド・モダン社会(現代社会)は「生きづらさ」を伴った社会と位置づけたが、コメンテーターから、むしろこのリキッド(流動的)な状況を、「生きやすさ」(チャンス)ではないか、という指摘があった。それは、何をしても個人の責任に帰せられるという背景があるとはいえ、選択が自由であるから、自分があらゆることをやりたいようにできる。つまりストレーター秩序や既存のライフスタイルを超えた生き方を追求できる、という側面からである。確かに、私自身の人生を振り返ってみても、現代がリキッドであるから、いろんな転落や挫折を経験しても、今は自分が思う道に進むことができ、社会的にもそれなりな立場を得つつある(今後どうなるかまだ不確定ではあるものの)状態になったのであって、ソリッドのなかで生きていたならば、私はとうに社会から排除、それこそアンダークラスやゲットーに陥っていたであろう。そういった意味では、まずは私自身の思想として多様な生き方を受け入れることが必要であることはいうまでもない。(そういうスタンスはこれまでも取ってきたが、振り返ると若干の反省が浮き彫りになる)だが、現在の状況下において「生きやすさ」とするためには、やはり湯浅誠氏が述べているように、「五重の排除」の状態ではなく、あらゆる「溜め」を持っている(いる)必要があり、貧困に陥っている大衆にはそれが達成されていない。だから、やはり私は、現在の状況を「生きづらさ」と捉えて、修論に向けて論を進めていきたいと思う。
「生きづらさ」への着目として、フロアからの指摘があったように、教育から社会を変える視点というよりも、社会を根本的に問いなおす姿勢や視点が必要であることはいうまでもない。しかしながら、目の前の教育現場をおろそかにはできないから「社会をとらえなおす視点」「子どもたちをとらえなおす視点」の両方から考察することが大切だと思う。だからこそ、アソシエーションを提起したのだが、ここも修論ではもっと詰めていきたい。
・バウマン理論に関して
バウマン理論の前提として、リキッドでは社会の中で大衆がみな生き抜くことができないから、ソリッドに再帰するべきという視点がある。これは、ソリッドは、ナチスのような事例があったものの、大衆みなが幸福に生活できる可能性をもっていたからだとしている。だが、ソリッドに回帰するというよりも(することは困難だろうと他方で考えているのだろう)、リキッドに即した社会創造、人々のつながりを考察したからこそ、共和制・自立的社会・アゴラの創造をバウマンは提案しているのではないだろうか(もちろんこれも回帰しているのかもしれないが)。学会での反省のひとつとして、このバウマンの提案を最後省略してしまったことにある。この点で、まだバウマン理論を理解しきれていないという自戒を強く持っている。もちろん、バウマン理論は、抽象度が高く、かつ論理が右往左往する傾向にある。これは、バウマンがリキッド・モダン社会だから、恣意的にリキッドな表現技法を使っているのであろう。だから、解釈の仕方も(極端なとらえ方のミスはのぞいて)多様であってもいいのかもしれない。だから、うまく日本社会に活用できるような論理構成が求められる。
・物事を単純視すること、複層視すること、それぞれのジレンマ
レジュメ内でも述べたことだが、現代はリキッドであるから、何事に対してもフレキシブルであることが今必要不可欠である。しかし、残念ながら人間はそんなに器用な生き物ではないと感じている。だから、リキッドであることを前提としても、どうしても論が単純化(一間か)してしまい、逆にリキッドに述べようとすると力業になってしまい「じゃあ、何が言いたいの?!」という結論に陥る。もちろん、私自身のちから不足がそれを示していることは言うまでもないが、結局、提案や指摘というものは単純化(一元化)なもの(そうしないとはっきりと伝わらないもの)なのかもしれないと感じた。だとすると、提案において大切なことは、「見通しがあること」「可能性があること」「一元的なんだけれど、とらえ方によって多様な変革や複層視できる期待があること」などなのではないだろうか。これも修論につなげていきたい。
2011年09月29日
日本生活指導学会第29回大会 発表原稿要旨
このブログの更新、またも1年以上がすぎてしまいました。
日本は震災でがらりと変化してしまいましたが、私も昨年末からいろいろありました。
・修論への追い込みをかけていた年末に痔瘻が悪化し激痛でのたうちまわり、手術入院。
・さらに慢性腸炎で通院、クローン病やバセドー氏病が疑われ検査の連続。幸いにもそれらの難病ではなく過敏性大腸炎だったのですが、それはそれでなかなか大変。
・修了を一年伸ばすことに。
・出費が重なったプラス溜めも奨学金もなくなったため、4月から非常勤などを始め、休みらしい休みがなくなる。
・体重が20kg超痩せる。
と、ざっとこういう感じでした。
まぁ、ネガティブなことの羅列になってしまいましたが、今回ブログを更新したのは、9月のはじめに、昨年に引き続き、日本生活指導学会に発表をしまして、その報告みたいなものをしようと思いまして。ようやく時間がとれたので、いろいろと書いてみました。
まずは、抄録集に載せた要旨を以下に。
本レジュメは長いので、URLを記載しておきます。
http://www.geocities.jp/quinella/2011jasg-hirochi.pdf
第29回日本生活指導学会(金沢大学) 自由研究発表Ⅲ
リキッド・モダン社会におけるコミュニティ形成に関する考察
―ジグムント・バウマンの理論を手がかりに―
廣地 翔(愛知教育大学院生 教育学)
1.多様な生きづらさが表出しているリキッド・モダン社会
現代社会に生きる子ども・若者たちにとって、常に「生きづらさ」を抱えていることはもはや当たり前と言っても過言ではなくなってしまった。生きづらさは経済的貧困や友だち関係の歪み、自己肯定感の喪失など多岐にわたって捉えられ語られているが、これらは別々の問題ではなく、社会構造全体の問題としてつながっている。結論を言えば、子ども・若者たちを襲う生きづらさの原因の根源は、現代社会がソリッド・モダン社会からリキッド・モダン社会へと変容したことによって生み出されたものだ、と指摘できる。
現代社会はリキッド・モダン社会であると提言したジグムント・バウマンに従えば、リキッド・モダン社会は、社会全体が生産社会から消費社会へと構造転換したことによって、それまでの安定した習慣やルールなどが融解し、あらゆる物事が不安定で不確実性を伴うものに変容したことに、大きな特徴がある。この結果、個人の選択や行動の自由が承認され増加した一方で、すべて自己解決することが求められ、個人の負担が強まるようになったのである。そうなると、あらゆる物事や他者の存在とのかかわりに余裕も意義も見い出せなくなってしまい、結果、それらとの関係は刹那的かつエピソード的になり、当然、連帯によって生まれる共通善や公共空間といったものは形成できなくなる。だが、教育実践上で、自立に必要な要素である連帯という視点を疎かにすることはできず、私たちは、リキッド・モダン社会での連帯という矛盾ある課題に挑んでいく必要がある。そこで、人々の連帯と関連の深いコミュニティ形成について考えていきたい。
2.リキッド・モダン社会のコミュニティはどうなっているのか
バウマンによれば、ソリッド・モダン社会時代のコミュニティは、永続的に相互行為が頻繁かつ濃密に交わされ、それによって生まれ人々に共有される伝統や記憶を源として、固く結び続けているものとして定義されていた、と指摘している。しかし、不安定で不確実なリキッド・モダン化によって、安心・安全・安定したコミュニティも維持することができなくなってしまった。すると、人々は、自己に自己の居場所を求めるようになる。それがリキッド・モダン社会のアイデンティティである。しかし、リキッド・モダン社会においてのアイデンティティ構築は孤独や恐怖と常に隣り合わせにあるため、人々は、それらを一緒に克服していける集団を求め、新たなコミュニティを作り出していく。それが今のコミュニティ形成の基本となっているのだ。だが、バウマンは、こうしたコミュニティをペグ・コミュニティ(一時的に共通する不安や恐怖を一緒に掛けることができるくぎのようなコミュニティという意味)にしかすぎない、と指摘する。ペグ・コミュニティの特徴をさらに挙げると、「社会の善悪や公共空間の形成に無関心であること」、「安心感、永続感、安定感を与えてくれる偶像idolを必要としていること」、「他者とのかかわりにわずらわしさや恐怖を感じるようになっていること」などであり、リキッド・モダン社会で形成されるコミュニティの多くは、人々が抱える悩みや苦しみを癒してはくれるものの、結局その場しのぎのものでしかないと言えるだろう。
実際に、生きづらさを抱えた若者たち自身が互いに支え合う場所と関係を作り始めているコミュニティおよびネットワークに着目した実践報告や研究でも、乾彰夫氏は、そこで作られるコミュニティはお互いを認め合い存在を肯定することで辛うじて自己を維持しているだけで自己の自立や将来への見通しはほとんど持つことがない、と指摘している。そのため、私たちは、どのようにして生きづらさを克服する関係や状況を作っていくかを考えていかねばならない。
3.生きづらさを克服する関係や状況をつくるためには
バウマンは、アゴラ(私的でもなく公的でもない領域、私的であると同時に公的である領域)を創造することが重要である、と提案する。そして、アゴラがあれば、誰もが安心感をもち、さまざまな差異を持つ者同士が意義のある対話に加わり、それぞれに自立性と市民の権利が得られるだろう、というのだ。しかし、弱者で作られたコミュニティは転落の一途を辿りゲットーの道に陥る、とも述べており、いかにして、弱者の視点を持ちながら社会に対抗しうるコミュニティおよび連帯関係づくりを作り上げていくかが課題であるだろう。また、バウマン自身も、誰もが安心な空間を作るのは非常に難問だと語っており、実際にアゴラが具体的にどのようなものかもつかめていないという課題がある。
そこで、重要となるのは、コミュニティのなかにアソシエーションの集団を創りだすことではないだろうかと考える。全生研第52回大会基調提案(山本敏郎氏)に従いながら述べると、ここで言うアソシエーションとは、自分たちの必要と要求にもとづく要求実現運動のグループのことを指す。近年、NGOやNPOといった事業が現実に着実な発展を見せ、社会変革への有効性を証明しはじめているものでもあるが、それは、再度山本氏に従うと次のように創り出されていくとまとめることができる。①社会で起きていることや他者に起きていることに対して、それぞれの当事者性にふれる。②他者の呼びかけに応答しつつ、自分自身のなかの当事者性をたちあげる。③他者と自分のつながりを実感し、現実を共有する。④社会に対して、他者と自分のそれぞれに必要なことや要求すべきことを見いだす。⑤それらを提起するためにどのように社会運動をしていくか考察し、行動していく。こうしたアソシエーションの特徴は、浅野誠氏によれば、違いをもちよって協同することを通して新たな豊かなものを創造するということであり、まさに、アソシエーションによって作られた集団は、その場しのぎにしかすぎないとされるリキッド・モダン社会のコミュニティの欠点を補い、生きづらさを克服するものとして機能するのではないだろうか。そして、バウマンが理想としているアゴラを形成するための一番の近道ではないだろうか。
日本は震災でがらりと変化してしまいましたが、私も昨年末からいろいろありました。
・修論への追い込みをかけていた年末に痔瘻が悪化し激痛でのたうちまわり、手術入院。
・さらに慢性腸炎で通院、クローン病やバセドー氏病が疑われ検査の連続。幸いにもそれらの難病ではなく過敏性大腸炎だったのですが、それはそれでなかなか大変。
・修了を一年伸ばすことに。
・出費が重なったプラス溜めも奨学金もなくなったため、4月から非常勤などを始め、休みらしい休みがなくなる。
・体重が20kg超痩せる。
と、ざっとこういう感じでした。
まぁ、ネガティブなことの羅列になってしまいましたが、今回ブログを更新したのは、9月のはじめに、昨年に引き続き、日本生活指導学会に発表をしまして、その報告みたいなものをしようと思いまして。ようやく時間がとれたので、いろいろと書いてみました。
まずは、抄録集に載せた要旨を以下に。
本レジュメは長いので、URLを記載しておきます。
http://www.geocities.jp/quinella/2011jasg-hirochi.pdf
第29回日本生活指導学会(金沢大学) 自由研究発表Ⅲ
リキッド・モダン社会におけるコミュニティ形成に関する考察
―ジグムント・バウマンの理論を手がかりに―
廣地 翔(愛知教育大学院生 教育学)
1.多様な生きづらさが表出しているリキッド・モダン社会
現代社会に生きる子ども・若者たちにとって、常に「生きづらさ」を抱えていることはもはや当たり前と言っても過言ではなくなってしまった。生きづらさは経済的貧困や友だち関係の歪み、自己肯定感の喪失など多岐にわたって捉えられ語られているが、これらは別々の問題ではなく、社会構造全体の問題としてつながっている。結論を言えば、子ども・若者たちを襲う生きづらさの原因の根源は、現代社会がソリッド・モダン社会からリキッド・モダン社会へと変容したことによって生み出されたものだ、と指摘できる。
現代社会はリキッド・モダン社会であると提言したジグムント・バウマンに従えば、リキッド・モダン社会は、社会全体が生産社会から消費社会へと構造転換したことによって、それまでの安定した習慣やルールなどが融解し、あらゆる物事が不安定で不確実性を伴うものに変容したことに、大きな特徴がある。この結果、個人の選択や行動の自由が承認され増加した一方で、すべて自己解決することが求められ、個人の負担が強まるようになったのである。そうなると、あらゆる物事や他者の存在とのかかわりに余裕も意義も見い出せなくなってしまい、結果、それらとの関係は刹那的かつエピソード的になり、当然、連帯によって生まれる共通善や公共空間といったものは形成できなくなる。だが、教育実践上で、自立に必要な要素である連帯という視点を疎かにすることはできず、私たちは、リキッド・モダン社会での連帯という矛盾ある課題に挑んでいく必要がある。そこで、人々の連帯と関連の深いコミュニティ形成について考えていきたい。
2.リキッド・モダン社会のコミュニティはどうなっているのか
バウマンによれば、ソリッド・モダン社会時代のコミュニティは、永続的に相互行為が頻繁かつ濃密に交わされ、それによって生まれ人々に共有される伝統や記憶を源として、固く結び続けているものとして定義されていた、と指摘している。しかし、不安定で不確実なリキッド・モダン化によって、安心・安全・安定したコミュニティも維持することができなくなってしまった。すると、人々は、自己に自己の居場所を求めるようになる。それがリキッド・モダン社会のアイデンティティである。しかし、リキッド・モダン社会においてのアイデンティティ構築は孤独や恐怖と常に隣り合わせにあるため、人々は、それらを一緒に克服していける集団を求め、新たなコミュニティを作り出していく。それが今のコミュニティ形成の基本となっているのだ。だが、バウマンは、こうしたコミュニティをペグ・コミュニティ(一時的に共通する不安や恐怖を一緒に掛けることができるくぎのようなコミュニティという意味)にしかすぎない、と指摘する。ペグ・コミュニティの特徴をさらに挙げると、「社会の善悪や公共空間の形成に無関心であること」、「安心感、永続感、安定感を与えてくれる偶像idolを必要としていること」、「他者とのかかわりにわずらわしさや恐怖を感じるようになっていること」などであり、リキッド・モダン社会で形成されるコミュニティの多くは、人々が抱える悩みや苦しみを癒してはくれるものの、結局その場しのぎのものでしかないと言えるだろう。
実際に、生きづらさを抱えた若者たち自身が互いに支え合う場所と関係を作り始めているコミュニティおよびネットワークに着目した実践報告や研究でも、乾彰夫氏は、そこで作られるコミュニティはお互いを認め合い存在を肯定することで辛うじて自己を維持しているだけで自己の自立や将来への見通しはほとんど持つことがない、と指摘している。そのため、私たちは、どのようにして生きづらさを克服する関係や状況を作っていくかを考えていかねばならない。
3.生きづらさを克服する関係や状況をつくるためには
バウマンは、アゴラ(私的でもなく公的でもない領域、私的であると同時に公的である領域)を創造することが重要である、と提案する。そして、アゴラがあれば、誰もが安心感をもち、さまざまな差異を持つ者同士が意義のある対話に加わり、それぞれに自立性と市民の権利が得られるだろう、というのだ。しかし、弱者で作られたコミュニティは転落の一途を辿りゲットーの道に陥る、とも述べており、いかにして、弱者の視点を持ちながら社会に対抗しうるコミュニティおよび連帯関係づくりを作り上げていくかが課題であるだろう。また、バウマン自身も、誰もが安心な空間を作るのは非常に難問だと語っており、実際にアゴラが具体的にどのようなものかもつかめていないという課題がある。
そこで、重要となるのは、コミュニティのなかにアソシエーションの集団を創りだすことではないだろうかと考える。全生研第52回大会基調提案(山本敏郎氏)に従いながら述べると、ここで言うアソシエーションとは、自分たちの必要と要求にもとづく要求実現運動のグループのことを指す。近年、NGOやNPOといった事業が現実に着実な発展を見せ、社会変革への有効性を証明しはじめているものでもあるが、それは、再度山本氏に従うと次のように創り出されていくとまとめることができる。①社会で起きていることや他者に起きていることに対して、それぞれの当事者性にふれる。②他者の呼びかけに応答しつつ、自分自身のなかの当事者性をたちあげる。③他者と自分のつながりを実感し、現実を共有する。④社会に対して、他者と自分のそれぞれに必要なことや要求すべきことを見いだす。⑤それらを提起するためにどのように社会運動をしていくか考察し、行動していく。こうしたアソシエーションの特徴は、浅野誠氏によれば、違いをもちよって協同することを通して新たな豊かなものを創造するということであり、まさに、アソシエーションによって作られた集団は、その場しのぎにしかすぎないとされるリキッド・モダン社会のコミュニティの欠点を補い、生きづらさを克服するものとして機能するのではないだろうか。そして、バウマンが理想としているアゴラを形成するための一番の近道ではないだろうか。
2010年08月08日
日本生活指導学会第28回大会 発表原稿要旨
このブログ更新、2年ぶりになります(苦笑)
大学院に進学してから1年半。
うだつが上がらなくて仕方のない院生生活でしたが、ようやく軌道に乗ってきた気がします。
そのきっかけとなった、生活指導学会での発表。今日が要旨原稿の提出日でした。
師匠と先輩との共同発表ですが、実質私の修論いや今後も続いていく研究テーマ。
現代社会の若者論に関して先輩に手助けしていただき、
師匠に全体を通してフォローをしてもらうという、
なんとも贅沢な形になったわけですが、
それでも、自画自賛します。
良くぞジグムント・バウマンの理論が構造的につかめてきたと!
ようやく“語れる”ようになってきたことで、師匠から初のて(1年半にしてようやく!笑)評価をいただき、
手ごたえをつかみながら、自らの研究作業、ゼミ合宿を通して、それなりに形になったと思います。
もちろんまだまだ本発表までのあと1ヶ月、
90分の発表を形あるものにするために、研究に勤しまなければいけませんが、
良い発表になるように、フロアからすごい指摘がいただけるように、そして少しでも教育のためになるように、
頑張っていきたいと思います。
それで、以下がその原稿。
1を先輩にお願いし、2~4が私が執筆しています。
ご感想、ご意見等あったら、ぜひお気軽に、よろしくお願いします。
日本生活指導学会第28回大会
自由研究発表Ⅴ
現代社会における若者の新たな連帯の可能性に関する考察
―ジグムント・バウマンの理論を手がかりに―
1.若者の共同化が困難になっている現代社会の状況
今日、若者はいかなる状況に置かれているのだろう。新自由主義の下にある現代で若者の多くは孤立化している。それはあらゆる社会問題が個人のレベルに落とし込まれたことで公共空間が収縮し、一見するとモラルの崩壊とも取れる。また雇用がフレキシブル化するなかで個人の自己責任論を植え付けられた若者達は将来展望が持てないでいる。結果総じて若者は自尊感情をも失っている。
こうした現状に対して教育政策立案者たちはキャリア教育と道徳教育強化で対応しようとしているが、このような施策では孤立化した個人による競争を煽り、個人の相互監視・非難の関係を生み出すだけであり、問題を隠蔽することはできても克服することは不可能である。他方教育実践で、少なくない教師が孤立化した子ども・若者の状況にどう対処して良いかわからず茫然自失している現状もある。共同が成立していた「古き良き時代」の方法で実践を試み、それが上手くいかないと子どもが変わったと子ども批判・非難に陥ってしまうこともある。こうした状況を打破するたるめには、改めて現在の若者の置かれた状況とそこでの若者の思考や行動を把握し、それに相応しい実践方法を構築していくことが要求される。そして多くの研究者がこのような現代社会における共同の困難に抗して、連帯の可能性を追求している。連帯とは他者とのつながりであると同時に他者からの認識であり、自立に必要な要素だと我々は考えている。なかでも特にバウマンは、近年グローバルな知見を基に消費主義やニュープアといった問題を抱える個人化社会における新たな連帯を精力的に追求している。そこで、バウマンの現代社会の捉え方やその中での連帯の可能性や方法について明らかにすることによって、新たな教育実践の可能性を探りたい。
2.ジグムント・バウマンの現代社会分析について
社会全体が、生産社会から消費社会へと構造転換したことによって、これまででは考えられなかったさまざまな社会問題が生じている。現代社会の診断で注目を集めている社会学者ジグムント・バウマンは、その特徴を「今日真実だったものが明日には虚構になってしまう」リキッド・モダニティ、「物事のすべてを個人のレベルで解決しなければならない」個人化社会、「次々に使い捨てにされていく」人間廃棄物など、多様なキーワードを駆使しながら分析している。
消費社会化のなかで、コミュニティ、アイデンティティ、コミュニケーションといった他者や集団とのつながりにかかわるものは大きく変化している。それによって、私たちは、あらゆる生活局面において、不安と不確実性が強いられるというリスクを背負わされ、常に生きづらさを抱えるようになった。個人にとってのあらゆる物事や他者の存在は、刹那的かつエピソード的なものになり、また社会の中で生き抜いていくための選択肢はそれしかなくなってしまったのである。そのため、共同化の条件といえる、共通善・公共空間といったものを形成していくことが厳しくなり、またそうしたものに関心を引き付けることも難しくなっている。私たちは、ペグ・コミュニティ(多くの孤独な個人達が孤独な個人であることによって生じる不安をひっかけるための「掛け釘」のまわりに一時的に集まったもので構成される共同体)においてのつながりでしか、他者や集団に対して関係性を持つことができなくなってきている。
しかしそれでも私たちは、何かしらの他者とのつながりやネットワーク化への(相互依存関係への)欲求は切実にもっている。具体的なもので例えるならば、「2ちゃんねるやミクシィとはじめとするネット社会、オタクと呼ばれる人たちが集うコミックマーケット、多くのミュージシャンが集まって行う野外ライヴ」といったものが挙げられるだろうと発表者は考える。そのため、ペグ・コミュニティというその場かぎりの共同体(もちろん脆弱で刹那的な)が形成されているのは、他者や集団との共同化への憧れを潜在的には相当に持っている現われではないだろうか。その推測に期待すれば、一人でありたい(一人にならざるをえない)反面、相互依存関係を求めるアンビバレントな部分を乗り越えることができれば、新たな連帯の可能性を導き出すことができるのではないだろうか。
3.ジグムント・バウマンが述べる新しい連帯の可能性とは
バウマンは、コミュニタリアリズムに回帰することなく、共同化への手がかりとなるような言説を以下のように提示している。まず、道徳的主体としての個人に訴えていくことが挙げられる。つまり、人が生まれながらにして備えている道徳的衝動に依拠して、人と人とが共にあることを呼び戻すことである。ここで大切なことは、他者の拠りどころとなっている(自分とは異なる)アイデンティティを排斥してはいけないことである。自己と他者においてはさまざまなアンビバレントな部分が生じることを理解しておいた上で、他者に柔軟的に対応できることが求められる。
次に、教育(自己教育・生涯教育を含む)によるエンパワーメントに期待することである。人間がお互いの結びつきを作ったり作りなおしたりしながら、日々生活していく能力を育成していくことは、批判・自己批判能力、自分の選択とその結果に責任を負うために必要とされる勇気、枠組みを変えるための能力、そして、自由から逃走するという誘惑に抵抗する能力を養っていくことにつながっていく。そしてそれは、他者へ関わっていく意思と能力が不可欠であるのだ。
そして、グローバルな公共空間を創造することである。それは、今までにおいての国民国家の代表制度を軸とした公共空間ではなく、地球を共有しているわたしたちすべてが自分の現在と未来に関して、お互いに依存し合っているという事実を元にした公共空間である。その論理の前提は、全地球的な問題に対する、持続的で本当に効果のある解決策は、網の目のようなグローバルな相互依存と相互作用のあり方を交渉しなおしたり、改革したりしていくことを通じてのみ見出され、機能するということである。
4.今後の課題ならびに本発表において
これらの提案は、私たちにとって馴染みのないものであると、バウマン自身が認めているところである。そのため、他者との対話・他者理解においての方策を問いていきながら、具体的に実践的に、三つの可能性を検討していくことが今後の課題であるだろう。当日の発表では、バウマン理論の全体像とともに、その課題について議論できればと考えている。
大学院に進学してから1年半。
うだつが上がらなくて仕方のない院生生活でしたが、ようやく軌道に乗ってきた気がします。
そのきっかけとなった、生活指導学会での発表。今日が要旨原稿の提出日でした。
師匠と先輩との共同発表ですが、実質私の修論いや今後も続いていく研究テーマ。
現代社会の若者論に関して先輩に手助けしていただき、
師匠に全体を通してフォローをしてもらうという、
なんとも贅沢な形になったわけですが、
それでも、自画自賛します。
良くぞジグムント・バウマンの理論が構造的につかめてきたと!
ようやく“語れる”ようになってきたことで、師匠から初のて(1年半にしてようやく!笑)評価をいただき、
手ごたえをつかみながら、自らの研究作業、ゼミ合宿を通して、それなりに形になったと思います。
もちろんまだまだ本発表までのあと1ヶ月、
90分の発表を形あるものにするために、研究に勤しまなければいけませんが、
良い発表になるように、フロアからすごい指摘がいただけるように、そして少しでも教育のためになるように、
頑張っていきたいと思います。
それで、以下がその原稿。
1を先輩にお願いし、2~4が私が執筆しています。
ご感想、ご意見等あったら、ぜひお気軽に、よろしくお願いします。
日本生活指導学会第28回大会
自由研究発表Ⅴ
現代社会における若者の新たな連帯の可能性に関する考察
―ジグムント・バウマンの理論を手がかりに―
1.若者の共同化が困難になっている現代社会の状況
今日、若者はいかなる状況に置かれているのだろう。新自由主義の下にある現代で若者の多くは孤立化している。それはあらゆる社会問題が個人のレベルに落とし込まれたことで公共空間が収縮し、一見するとモラルの崩壊とも取れる。また雇用がフレキシブル化するなかで個人の自己責任論を植え付けられた若者達は将来展望が持てないでいる。結果総じて若者は自尊感情をも失っている。
こうした現状に対して教育政策立案者たちはキャリア教育と道徳教育強化で対応しようとしているが、このような施策では孤立化した個人による競争を煽り、個人の相互監視・非難の関係を生み出すだけであり、問題を隠蔽することはできても克服することは不可能である。他方教育実践で、少なくない教師が孤立化した子ども・若者の状況にどう対処して良いかわからず茫然自失している現状もある。共同が成立していた「古き良き時代」の方法で実践を試み、それが上手くいかないと子どもが変わったと子ども批判・非難に陥ってしまうこともある。こうした状況を打破するたるめには、改めて現在の若者の置かれた状況とそこでの若者の思考や行動を把握し、それに相応しい実践方法を構築していくことが要求される。そして多くの研究者がこのような現代社会における共同の困難に抗して、連帯の可能性を追求している。連帯とは他者とのつながりであると同時に他者からの認識であり、自立に必要な要素だと我々は考えている。なかでも特にバウマンは、近年グローバルな知見を基に消費主義やニュープアといった問題を抱える個人化社会における新たな連帯を精力的に追求している。そこで、バウマンの現代社会の捉え方やその中での連帯の可能性や方法について明らかにすることによって、新たな教育実践の可能性を探りたい。
2.ジグムント・バウマンの現代社会分析について
社会全体が、生産社会から消費社会へと構造転換したことによって、これまででは考えられなかったさまざまな社会問題が生じている。現代社会の診断で注目を集めている社会学者ジグムント・バウマンは、その特徴を「今日真実だったものが明日には虚構になってしまう」リキッド・モダニティ、「物事のすべてを個人のレベルで解決しなければならない」個人化社会、「次々に使い捨てにされていく」人間廃棄物など、多様なキーワードを駆使しながら分析している。
消費社会化のなかで、コミュニティ、アイデンティティ、コミュニケーションといった他者や集団とのつながりにかかわるものは大きく変化している。それによって、私たちは、あらゆる生活局面において、不安と不確実性が強いられるというリスクを背負わされ、常に生きづらさを抱えるようになった。個人にとってのあらゆる物事や他者の存在は、刹那的かつエピソード的なものになり、また社会の中で生き抜いていくための選択肢はそれしかなくなってしまったのである。そのため、共同化の条件といえる、共通善・公共空間といったものを形成していくことが厳しくなり、またそうしたものに関心を引き付けることも難しくなっている。私たちは、ペグ・コミュニティ(多くの孤独な個人達が孤独な個人であることによって生じる不安をひっかけるための「掛け釘」のまわりに一時的に集まったもので構成される共同体)においてのつながりでしか、他者や集団に対して関係性を持つことができなくなってきている。
しかしそれでも私たちは、何かしらの他者とのつながりやネットワーク化への(相互依存関係への)欲求は切実にもっている。具体的なもので例えるならば、「2ちゃんねるやミクシィとはじめとするネット社会、オタクと呼ばれる人たちが集うコミックマーケット、多くのミュージシャンが集まって行う野外ライヴ」といったものが挙げられるだろうと発表者は考える。そのため、ペグ・コミュニティというその場かぎりの共同体(もちろん脆弱で刹那的な)が形成されているのは、他者や集団との共同化への憧れを潜在的には相当に持っている現われではないだろうか。その推測に期待すれば、一人でありたい(一人にならざるをえない)反面、相互依存関係を求めるアンビバレントな部分を乗り越えることができれば、新たな連帯の可能性を導き出すことができるのではないだろうか。
3.ジグムント・バウマンが述べる新しい連帯の可能性とは
バウマンは、コミュニタリアリズムに回帰することなく、共同化への手がかりとなるような言説を以下のように提示している。まず、道徳的主体としての個人に訴えていくことが挙げられる。つまり、人が生まれながらにして備えている道徳的衝動に依拠して、人と人とが共にあることを呼び戻すことである。ここで大切なことは、他者の拠りどころとなっている(自分とは異なる)アイデンティティを排斥してはいけないことである。自己と他者においてはさまざまなアンビバレントな部分が生じることを理解しておいた上で、他者に柔軟的に対応できることが求められる。
次に、教育(自己教育・生涯教育を含む)によるエンパワーメントに期待することである。人間がお互いの結びつきを作ったり作りなおしたりしながら、日々生活していく能力を育成していくことは、批判・自己批判能力、自分の選択とその結果に責任を負うために必要とされる勇気、枠組みを変えるための能力、そして、自由から逃走するという誘惑に抵抗する能力を養っていくことにつながっていく。そしてそれは、他者へ関わっていく意思と能力が不可欠であるのだ。
そして、グローバルな公共空間を創造することである。それは、今までにおいての国民国家の代表制度を軸とした公共空間ではなく、地球を共有しているわたしたちすべてが自分の現在と未来に関して、お互いに依存し合っているという事実を元にした公共空間である。その論理の前提は、全地球的な問題に対する、持続的で本当に効果のある解決策は、網の目のようなグローバルな相互依存と相互作用のあり方を交渉しなおしたり、改革したりしていくことを通じてのみ見出され、機能するということである。
4.今後の課題ならびに本発表において
これらの提案は、私たちにとって馴染みのないものであると、バウマン自身が認めているところである。そのため、他者との対話・他者理解においての方策を問いていきながら、具体的に実践的に、三つの可能性を検討していくことが今後の課題であるだろう。当日の発表では、バウマン理論の全体像とともに、その課題について議論できればと考えている。
2008年10月30日
阪大小野田先生の特別授業 at 名桜大学
今日の名桜大学での2限目、教職研究の授業。
大阪大学の小野田正利先生が来校され、特別授業をしていただきました。
小野田先生には、昨年の高生研全国大会および大阪大学での集中講義において、
かなりお世話になったので、
久々にお会いできることと、また刺激をいただけることの嬉しさ、
そして名桜に来るとは思わなかった驚きで、いっぱいでした。
内容的には、昨年の高生研全国大会の時に+αしたものという印象でしたが、
久しぶりに全国で名だたる教育学者にふれて、かなりの刺激を受けれたと思います。
しかしながら、小野田先生の講演は、
"教師になるための学習"というよりも、
"教師になったときの学習"であるので、
それを意識して、自分の学びとすることが、この講演の意義を初めて見出せると感じています。
今日講演を受けた後輩たちが、振り返るときに、"それ"をしてくれることを期待したいと思います。
講演内容は、お手数ですが、去年の高生研全国大会講演レポを参照で、お願いします。
http://edush.ti-da.net/e1754109.html
それで、これにプラスして、今日の講演で、現場に入ったこと際の重要な点だと感じたことを列挙しておきます。
・悪循環を好循環(ピンチをチャンス)と考えること。
・寛容性(許せる範囲の中で)を持つこと。
・冷静に、発生したこと(イチャモン)を分析すること。
・すべてのトラブルを解決することはできないと考えておくこと。
・"コト"が大きくなったら、しかるべき専門家へ相談すること。
・グチをこぼせる場を作っておくこと。
なかなか現場それぞれに、"色"があるので、毎回うまくいくとは限らないとは思いますが、
こういったことを頭に入れておき、気持ちにゆとりを持てれば、
極端な話、うつ→自殺には陥らないことでしょう。
それから、いくつか私自身が疑問や質問として思ったことが3つ。
1.本土に比べて、沖縄の教育現場は、PTA保護者とのつながりが強く協同している部分が強いが、
では、そういう現場でのPTA保護者との交流のときに、どういったことを注意するべきか?
2.保護者から暴力やネグレクトで苦しむ子どもを発見したときに、どうやってその保護者と接し、呼びかけるべきか?
3.保護者からのイチャモンだけではなく、上司や同僚との協同性が皆無のときに、どうやって立ち向かうべきか?
これらは、実際に先生に接する機会があるので、伺ってみたいと思います。
それにしても、席が満員になるほど、学生がたくさん聴きにきていました。
いつもこれほど人が集まるくらい、授業のレベルが上がってくれればいいなと思うのは、私だけではないでしょう。
大阪大学の小野田正利先生が来校され、特別授業をしていただきました。
小野田先生には、昨年の高生研全国大会および大阪大学での集中講義において、
かなりお世話になったので、
久々にお会いできることと、また刺激をいただけることの嬉しさ、
そして名桜に来るとは思わなかった驚きで、いっぱいでした。
内容的には、昨年の高生研全国大会の時に+αしたものという印象でしたが、
久しぶりに全国で名だたる教育学者にふれて、かなりの刺激を受けれたと思います。
しかしながら、小野田先生の講演は、
"教師になるための学習"というよりも、
"教師になったときの学習"であるので、
それを意識して、自分の学びとすることが、この講演の意義を初めて見出せると感じています。
今日講演を受けた後輩たちが、振り返るときに、"それ"をしてくれることを期待したいと思います。
講演内容は、お手数ですが、去年の高生研全国大会講演レポを参照で、お願いします。
http://edush.ti-da.net/e1754109.html
それで、これにプラスして、今日の講演で、現場に入ったこと際の重要な点だと感じたことを列挙しておきます。
・悪循環を好循環(ピンチをチャンス)と考えること。
・寛容性(許せる範囲の中で)を持つこと。
・冷静に、発生したこと(イチャモン)を分析すること。
・すべてのトラブルを解決することはできないと考えておくこと。
・"コト"が大きくなったら、しかるべき専門家へ相談すること。
・グチをこぼせる場を作っておくこと。
なかなか現場それぞれに、"色"があるので、毎回うまくいくとは限らないとは思いますが、
こういったことを頭に入れておき、気持ちにゆとりを持てれば、
極端な話、うつ→自殺には陥らないことでしょう。
それから、いくつか私自身が疑問や質問として思ったことが3つ。
1.本土に比べて、沖縄の教育現場は、PTA保護者とのつながりが強く協同している部分が強いが、
では、そういう現場でのPTA保護者との交流のときに、どういったことを注意するべきか?
2.保護者から暴力やネグレクトで苦しむ子どもを発見したときに、どうやってその保護者と接し、呼びかけるべきか?
3.保護者からのイチャモンだけではなく、上司や同僚との協同性が皆無のときに、どうやって立ち向かうべきか?
これらは、実際に先生に接する機会があるので、伺ってみたいと思います。
それにしても、席が満員になるほど、学生がたくさん聴きにきていました。
いつもこれほど人が集まるくらい、授業のレベルが上がってくれればいいなと思うのは、私だけではないでしょう。
2008年10月29日
再スタート
再び、ご無沙汰をしております。
軽くこれまでの活動および近況から。
7月は、第2回名桜大学人間健康学部盃THE運動会を行いました。
私は、前回実行委員長ということもあり、今回は参謀という立場。
しかし、なんだかんだで中心的に動かすことになり、2週間それでいっぱいいっぱいでした。
そのため、とても大変ではあったのですが、
前回よりも層が厚く、いろんな人に楽しんでもらえたので、やってよかったと心から思っています。
問題は、これが次世代につながっていってほしいのですが・・・・。
なかなか次世代が育たないというのが、現在の課題であります。
8月末からは、1ヶ月間、ある中学校で教育実習でした。
全校生徒100人弱という小規模校で、かつ荒れがない純粋な生徒ばかりのところでの実習でした。
そのため、ずいぶんと、先生方とも生徒たちとも近い距離で、たくさんのシーンで接する機会に恵まれ、たくさんの勉強ができたと感じています。
また、私の指導教諭になっていただいた先生は,”いろんなことを吸収してほしいから”という願いから、わざと私を突き放し、多方面で勉強させていただく機会を作ってくださいました。
そのことも含め,非常に恵まれた実習だったな,と感じています。
いろいろと思うところがありましたが、そのなかでも、
教師の同僚性の重要性、地域性に則った教育、そして生徒に対しては自分のスタイルを通すこと(間違ったスタイルでは当然NGですが)と忍耐力、
が大事だなと、常々思いました。
9月末に、自分として一番の勝負の、昨年からの希望であった大学院の受験でした。
結果は、不合格。
英語はびっくりなことにボーダーを取っていたそうなのですが、
肝心の専門分野が半分以下だったそうです(質の問題だと指摘されました)
時間もあまりなく、障害もたくさんあることが判明したので、
これからどうなるかが若干不透明なのですが、
やるべきことはひとつだけなので、
あきらめずに精進していきたいと思います。
そして、ブログもHirochi's Journalと改新して、
教育活動だけでなく、あらゆることに対して、発言していこうと思います。
そうすれば、毎日小さいことでも書けますし、日々勉強する契機にもなりますので。
改めて、よろしくお願いします。
軽くこれまでの活動および近況から。
7月は、第2回名桜大学人間健康学部盃THE運動会を行いました。
私は、前回実行委員長ということもあり、今回は参謀という立場。
しかし、なんだかんだで中心的に動かすことになり、2週間それでいっぱいいっぱいでした。
そのため、とても大変ではあったのですが、
前回よりも層が厚く、いろんな人に楽しんでもらえたので、やってよかったと心から思っています。
問題は、これが次世代につながっていってほしいのですが・・・・。
なかなか次世代が育たないというのが、現在の課題であります。
8月末からは、1ヶ月間、ある中学校で教育実習でした。
全校生徒100人弱という小規模校で、かつ荒れがない純粋な生徒ばかりのところでの実習でした。
そのため、ずいぶんと、先生方とも生徒たちとも近い距離で、たくさんのシーンで接する機会に恵まれ、たくさんの勉強ができたと感じています。
また、私の指導教諭になっていただいた先生は,”いろんなことを吸収してほしいから”という願いから、わざと私を突き放し、多方面で勉強させていただく機会を作ってくださいました。
そのことも含め,非常に恵まれた実習だったな,と感じています。
いろいろと思うところがありましたが、そのなかでも、
教師の同僚性の重要性、地域性に則った教育、そして生徒に対しては自分のスタイルを通すこと(間違ったスタイルでは当然NGですが)と忍耐力、
が大事だなと、常々思いました。
9月末に、自分として一番の勝負の、昨年からの希望であった大学院の受験でした。
結果は、不合格。
英語はびっくりなことにボーダーを取っていたそうなのですが、
肝心の専門分野が半分以下だったそうです(質の問題だと指摘されました)
時間もあまりなく、障害もたくさんあることが判明したので、
これからどうなるかが若干不透明なのですが、
やるべきことはひとつだけなので、
あきらめずに精進していきたいと思います。
そして、ブログもHirochi's Journalと改新して、
教育活動だけでなく、あらゆることに対して、発言していこうと思います。
そうすれば、毎日小さいことでも書けますし、日々勉強する契機にもなりますので。
改めて、よろしくお願いします。
2008年06月30日
第4回 高生研 沖縄・九州ブロックゼミ
6月21日~23日 那覇市にて。
21日
沖縄県立博物館見学および講話
22日
前半・授業に関する実践レポート2本
後半・「高生研的」キャリア教育レポート2本
23日(慰霊の日)
平和創造ツアー
久々の高生研活動。
もう院試に集中させてえええ!!!というところではありましたが、
沖縄高生研がホストということもあって、積極的に参加したこの会。
おかげさまで、メインの学習会では、久々に高生研の討議空間に感動し、改めて、自分を奮いたたせることができました。
ひとつひとつ解説したいのですが、時間もないので、
ひとつの実践報告を全国通信として書いた原稿を掲載します。
九州からは、熊本高生研のFさんが、昨年7月の衆議院選挙の模擬授業を行った際の実践報告「自分たちの予想と投票した人たちとの答えが同じだったのですごい」を行いました。
今の学校現場で求められているシティズンシップ教育を具体化させる意味でも、たいへん意味のある模擬投票を行う授業。
Fさんの実践では、以下の4点をねらいとして掲げています。(レジュメを引用させていただきました。)
①国や地域の政治について考えるきっかけとなり、現実政治の理解を深める生きた教材となる。
②実施に一人に決めて投票するのは大変である。だからこそ国民としての役割を実感します。よりよき国民、参加する市民としての意識を高める。
③自分は何を大切にし、どう政治を変えたいのか、生徒自身の身近な視点や問題点を明確にし、どう意思決定するのかを学ぶ。
④若者の低投票率は政治不信の現れで民主主義を形骸化させる。模擬授業で現実の選挙の重要性を知れば、若年層の投票率向上に役立つ。家庭や地域で若者が選挙について話をすることで、家庭や地域でも投票率を上げる効果が期待できる。
これらを踏まえると、まさにこの授業を通して、子どもたちが社会に対して主体的な観点を持つきっかけとなることが期待できそうです。
実際に、Fさんのこの実践はわずか2コマの授業数であったにもかかわらず、
・自分たちの予想と投票した人たちとの答えが同じだったのですごい。
・新聞などでは、どの人がいいかはわからないので、複数のメディアから誰がいいか、見極めることが大切だと思った。
・今まで全然政治などに興味がなかったけど、今回投票してみて、とても政治のことについて考えられたのでいい勉強になった。
といった、子どもたちの主体的でかつ積極的な応答がありました。
これらを考えると、もっと授業数を増やしていけば、4点のねらいを深めていくことはもちろんもっと政治に対する観点が培われるのではないか、もったいない!という意見が多く出てきました。また、参考にする情報が一新聞からのインタビュー記事のみだったり、子どもたち同士でのディスカッションする機会がなかったりなど、指摘する点もいくつか見られました。
しかし、Fさん自身は、もともと教師の実践というものは偶然性を伴うものであり、またやりすぎると教師自身の主観がどうしても入ってしまうので、特にこの実践においてはそこまではやる必要はないと語っていました。
このあたりはもう少し考える余地がありそうです。
そして、私が最も気になったのは、Fさんがこの実践を他の教研集会において発表したところ、各方面から非難をかなり受けたという点。
授業において、模擬投票を行うことや子どもたちに政治に対する考えを持たすことに、今の教育界はこういったネガティブな反応を、最近良く、見せます。
政治教育について述べられている教育基本法第14条を読み取れば、「すべての政党の政策を客観的に学習することで、総合的な政治的教養を得て、子どもたちに主体的な政治思想を持たせる」というのが、教師の役目であると私は解釈しています。
にもかかわらず、政治的中立性という視点にこだわりすぎて学校教育での基本的な狙いを放置してしまい、最終的には政治教育をタブー化させてしまっている方が多い現状はなんとも悲しいところですね。
いろいろと考えさせられた実践報告でした。
余談ですが、Fさんは、このブロックゼミにおいて、参加者のみなさんに熊本高生研通信の会員へと活発的に勧誘なさっていました。Fさんいわく10人強を勧誘に成功したそうです。(私も喜んで釣られました笑)こうした地道な活動の積み重ねも熊本高生研の元気を支えているのだと感じ取ることができました。沖縄高生研も見習っていかなければ!!
そして、21日の講演と、23日の平和創造ツアー。
非常に印象に残ったひとときでした。
21日での講演で、慰霊の日の追悼式のときに、沖縄県の小学生が朗読した「世界を見つめる目」を紹介してくださいました。
やせっぽっちの男の子が
ほほえみながら、ぼくを見つめた
テレビの画面の中で…
ぼくもその男の子を見つめた
どんな事があったの?
何があったの?
何も食べる物がないんだ
でも、ぼくは生きたい
くるしいけど、あきらめない
ぼく がんばるよ
えがおが あふれる
生きる人間の力強さを感じた
ぼくは 真実を見つめる目を
持ちたいと思った
悲しそうな目をした女の子が
なみだをうかべながら、ぼくを見つめた
テレビの画面の中で
ぼくもその女の子を見つめた
なぜ、悲しい顔をしているの?
なぜ、ないているの?
せんそうで、家族もいなくなっちゃった
家も 友達も
全部、全部なくなっちゃった
悲しいよ さびしいよ
どうすればいいの 助けて
大切なものをなくした人間の弱さを感じた
ぼくは 涙をふいてあげる
やさしい手を持ちたいと思った
きずだらけの男の人が
苦しそうな顔をして ぼくを見つめた
本の写真の中で…
ぼくもその男の人を見つめた
どうしたの?
いたいでしょ 大じょうぶ?
あらそいからは なにも生まれはしない
おたがいにきずつくだけ
にくしみがつのるだけ
人間のおかしたあやまちの大きさを感じた
ぼくは やさしくてあてしてあげる
あたたかい心を持ちたいと思った
ぼくのとなりで
おじいちゃんが
自分の目で見てきたできごとを
ぼくに伝えた
苦しかったせんそうのできごと
おばあちゃんが
自分が体験してきたできごとを
ぼくに伝えた
こわかった そかい先でのできごと
お父さんが
自分が聞いたできごとを
ぼくに伝えた
食べる物がなく 苦しんでいる人がいる事
家がなく つらい思いをしている人がいる事
家族とはなればなれになってしまっている人
ざんこくでひさんなできごと
悲しくなった つらくなった 胸が苦しくなった
お母さんが何も言わず
ぼくをだきしめた
むねがいっぱいになった
あたたかいぬくもりが
ずっとずっと ぼくの中にのこった
みんながしあわせになれるように
ぼくは、
世の中をしっかり見つめ
世界の声に耳をかたむけたい
そしていつまでも
やさしい手と
あたたかい心を持っていたい
23日の平和創造ツアー。
チビチリガマ、シムクガマ、嘉数高台を見学しました。
特にチビチリガマ。
集団自決により82名もの命が失われたガマ。
言葉が出ませんでした。
絶対に戦争はしてはいけない。
この一言に尽きます。
というわけで、学習会もオプションツアーも非常に実りあるものとなりました。
さて、勉強しなければ、です。
21日
沖縄県立博物館見学および講話
22日
前半・授業に関する実践レポート2本
後半・「高生研的」キャリア教育レポート2本
23日(慰霊の日)
平和創造ツアー
久々の高生研活動。
もう院試に集中させてえええ!!!というところではありましたが、
沖縄高生研がホストということもあって、積極的に参加したこの会。
おかげさまで、メインの学習会では、久々に高生研の討議空間に感動し、改めて、自分を奮いたたせることができました。
ひとつひとつ解説したいのですが、時間もないので、
ひとつの実践報告を全国通信として書いた原稿を掲載します。
九州からは、熊本高生研のFさんが、昨年7月の衆議院選挙の模擬授業を行った際の実践報告「自分たちの予想と投票した人たちとの答えが同じだったのですごい」を行いました。
今の学校現場で求められているシティズンシップ教育を具体化させる意味でも、たいへん意味のある模擬投票を行う授業。
Fさんの実践では、以下の4点をねらいとして掲げています。(レジュメを引用させていただきました。)
①国や地域の政治について考えるきっかけとなり、現実政治の理解を深める生きた教材となる。
②実施に一人に決めて投票するのは大変である。だからこそ国民としての役割を実感します。よりよき国民、参加する市民としての意識を高める。
③自分は何を大切にし、どう政治を変えたいのか、生徒自身の身近な視点や問題点を明確にし、どう意思決定するのかを学ぶ。
④若者の低投票率は政治不信の現れで民主主義を形骸化させる。模擬授業で現実の選挙の重要性を知れば、若年層の投票率向上に役立つ。家庭や地域で若者が選挙について話をすることで、家庭や地域でも投票率を上げる効果が期待できる。
これらを踏まえると、まさにこの授業を通して、子どもたちが社会に対して主体的な観点を持つきっかけとなることが期待できそうです。
実際に、Fさんのこの実践はわずか2コマの授業数であったにもかかわらず、
・自分たちの予想と投票した人たちとの答えが同じだったのですごい。
・新聞などでは、どの人がいいかはわからないので、複数のメディアから誰がいいか、見極めることが大切だと思った。
・今まで全然政治などに興味がなかったけど、今回投票してみて、とても政治のことについて考えられたのでいい勉強になった。
といった、子どもたちの主体的でかつ積極的な応答がありました。
これらを考えると、もっと授業数を増やしていけば、4点のねらいを深めていくことはもちろんもっと政治に対する観点が培われるのではないか、もったいない!という意見が多く出てきました。また、参考にする情報が一新聞からのインタビュー記事のみだったり、子どもたち同士でのディスカッションする機会がなかったりなど、指摘する点もいくつか見られました。
しかし、Fさん自身は、もともと教師の実践というものは偶然性を伴うものであり、またやりすぎると教師自身の主観がどうしても入ってしまうので、特にこの実践においてはそこまではやる必要はないと語っていました。
このあたりはもう少し考える余地がありそうです。
そして、私が最も気になったのは、Fさんがこの実践を他の教研集会において発表したところ、各方面から非難をかなり受けたという点。
授業において、模擬投票を行うことや子どもたちに政治に対する考えを持たすことに、今の教育界はこういったネガティブな反応を、最近良く、見せます。
政治教育について述べられている教育基本法第14条を読み取れば、「すべての政党の政策を客観的に学習することで、総合的な政治的教養を得て、子どもたちに主体的な政治思想を持たせる」というのが、教師の役目であると私は解釈しています。
にもかかわらず、政治的中立性という視点にこだわりすぎて学校教育での基本的な狙いを放置してしまい、最終的には政治教育をタブー化させてしまっている方が多い現状はなんとも悲しいところですね。
いろいろと考えさせられた実践報告でした。
余談ですが、Fさんは、このブロックゼミにおいて、参加者のみなさんに熊本高生研通信の会員へと活発的に勧誘なさっていました。Fさんいわく10人強を勧誘に成功したそうです。(私も喜んで釣られました笑)こうした地道な活動の積み重ねも熊本高生研の元気を支えているのだと感じ取ることができました。沖縄高生研も見習っていかなければ!!
そして、21日の講演と、23日の平和創造ツアー。
非常に印象に残ったひとときでした。
21日での講演で、慰霊の日の追悼式のときに、沖縄県の小学生が朗読した「世界を見つめる目」を紹介してくださいました。
やせっぽっちの男の子が
ほほえみながら、ぼくを見つめた
テレビの画面の中で…
ぼくもその男の子を見つめた
どんな事があったの?
何があったの?
何も食べる物がないんだ
でも、ぼくは生きたい
くるしいけど、あきらめない
ぼく がんばるよ
えがおが あふれる
生きる人間の力強さを感じた
ぼくは 真実を見つめる目を
持ちたいと思った
悲しそうな目をした女の子が
なみだをうかべながら、ぼくを見つめた
テレビの画面の中で
ぼくもその女の子を見つめた
なぜ、悲しい顔をしているの?
なぜ、ないているの?
せんそうで、家族もいなくなっちゃった
家も 友達も
全部、全部なくなっちゃった
悲しいよ さびしいよ
どうすればいいの 助けて
大切なものをなくした人間の弱さを感じた
ぼくは 涙をふいてあげる
やさしい手を持ちたいと思った
きずだらけの男の人が
苦しそうな顔をして ぼくを見つめた
本の写真の中で…
ぼくもその男の人を見つめた
どうしたの?
いたいでしょ 大じょうぶ?
あらそいからは なにも生まれはしない
おたがいにきずつくだけ
にくしみがつのるだけ
人間のおかしたあやまちの大きさを感じた
ぼくは やさしくてあてしてあげる
あたたかい心を持ちたいと思った
ぼくのとなりで
おじいちゃんが
自分の目で見てきたできごとを
ぼくに伝えた
苦しかったせんそうのできごと
おばあちゃんが
自分が体験してきたできごとを
ぼくに伝えた
こわかった そかい先でのできごと
お父さんが
自分が聞いたできごとを
ぼくに伝えた
食べる物がなく 苦しんでいる人がいる事
家がなく つらい思いをしている人がいる事
家族とはなればなれになってしまっている人
ざんこくでひさんなできごと
悲しくなった つらくなった 胸が苦しくなった
お母さんが何も言わず
ぼくをだきしめた
むねがいっぱいになった
あたたかいぬくもりが
ずっとずっと ぼくの中にのこった
みんながしあわせになれるように
ぼくは、
世の中をしっかり見つめ
世界の声に耳をかたむけたい
そしていつまでも
やさしい手と
あたたかい心を持っていたい
23日の平和創造ツアー。
チビチリガマ、シムクガマ、嘉数高台を見学しました。
特にチビチリガマ。
集団自決により82名もの命が失われたガマ。
言葉が出ませんでした。
絶対に戦争はしてはいけない。
この一言に尽きます。
というわけで、学習会もオプションツアーも非常に実りあるものとなりました。
さて、勉強しなければ、です。
2008年05月30日
1週間後に、また
1週間しかたっていないのですが、再び論壇投稿が掲載されました。
今回は政治ネタです。
実は、8日投票日の沖縄県議会選挙のある候補者のお手伝いをしていて、
実際に中に携わってみて、思ったことがたくさんあったので、書こうというきっかけになりました。
本当は有権者以前の政治教育のもろさを指摘し、提案したかったのですが、
タイムス側から、それもわかるが、今は今回の投票におけることを書いてほしいと要望がありまして、こういう内容になりました。
全文掲載します。
若者が選挙に向かうためには(5月30日沖縄タイムス)
沖縄県議会選挙が五月三〇日に告示、六月八日に投票日を迎える。
今の県政には、米軍基地問題を筆頭に、暫定税率問題、後期高齢者医療制度など、問題視しなければならない課題が多岐にわたっている。そのため、今回の選挙結果如何では県政運営が大きく左右することが予測できる。つまり、私たちの生活ががらりと変わってくる可能性を秘めた、私たちにとても身近で、かつ重要な選挙と捉えることができるだろう。
だが、相変わらず「選挙離れ」ムードは否めず、これまでの二〇〇六県知事選、二〇〇〇七参院選の投票率を鑑みれば、今回は県議選での全体の投票率が六〇%に乗ることは正直厳しいだろう。そして、一番心配なのは若者の不参加の多さである。「政治と自分の生活が繋がっているとは思えない」「自分には関係ないし難しいことはわからない」「自分のことで精一杯で政治に頭が回らない」といった声が蔓延っている中で、どうやって彼らに投票所に脚を向けさせるかが、大きな課題だ。
そもそも、こうなってしまった一番の原因は、有権者になる以前においての政治教育のもろさではないかと私は考えている。政治に対してのダイレクト性がなければ、選挙に行くという意志が生まれないのは当然の話である。
では、そんな背景にある状況の中で、加えてこの極めて短い期間で、若者を選挙へ促すにはどうしたらよいだろうか。
私は、とにかくメディア、大学、地域、家族などが協同し、社会全体であらゆるシーンで選挙に行こうという風潮を作りあげるべきだと考える。その上で、意識も持ち上げ、連携の世界、学びの世界を作りだして、それを選挙へ行く大きなきっかけとしてほしい。
実際に、五月二三日(金)の本紙において沖縄国際大学で県議選候補予定者討論会が行われたという頼もしい記事が掲載されたことを思い出してほしい。きっかけさえ作れば、しっかりと自分の意見も持った意識の高い若者を生み出すことは可能であるのだ。
もちろん、選挙に行って投票するだけでは意味がない。最近は選挙での投票基準の一つとして、メディアの情報に流されるだけであったり、派手なパフォーマンスやネームヴァリューのある候補者を選択するという、実に内実のないものとなっている現実も忘れてはならない。自己責任が渦巻いている日本社会の中で生活しているのであるならば、しっかりと自分の眼で身体で候補者を体感し、その上でしっかりと自分の考えを持った上で投票者を選ぶという、それこそ自己責任論を促し、持たせることが大切だ。
政治は「国民一人ひとりを幸せにするため」のものだと、私は考えている。にもかかわらず、それを左右する選挙を放棄する人が多いということは、自分の生活の権利を放棄している人が多いと捉えても過言ではない。そうしたことを若者だけでなく国民全体が意識し、かつ危機感をも持ちながら、投票日にはぜひ投票所に脚を運んでほしいと切に願う。
今回は政治ネタです。
実は、8日投票日の沖縄県議会選挙のある候補者のお手伝いをしていて、
実際に中に携わってみて、思ったことがたくさんあったので、書こうというきっかけになりました。
本当は有権者以前の政治教育のもろさを指摘し、提案したかったのですが、
タイムス側から、それもわかるが、今は今回の投票におけることを書いてほしいと要望がありまして、こういう内容になりました。
全文掲載します。
若者が選挙に向かうためには(5月30日沖縄タイムス)
沖縄県議会選挙が五月三〇日に告示、六月八日に投票日を迎える。
今の県政には、米軍基地問題を筆頭に、暫定税率問題、後期高齢者医療制度など、問題視しなければならない課題が多岐にわたっている。そのため、今回の選挙結果如何では県政運営が大きく左右することが予測できる。つまり、私たちの生活ががらりと変わってくる可能性を秘めた、私たちにとても身近で、かつ重要な選挙と捉えることができるだろう。
だが、相変わらず「選挙離れ」ムードは否めず、これまでの二〇〇六県知事選、二〇〇〇七参院選の投票率を鑑みれば、今回は県議選での全体の投票率が六〇%に乗ることは正直厳しいだろう。そして、一番心配なのは若者の不参加の多さである。「政治と自分の生活が繋がっているとは思えない」「自分には関係ないし難しいことはわからない」「自分のことで精一杯で政治に頭が回らない」といった声が蔓延っている中で、どうやって彼らに投票所に脚を向けさせるかが、大きな課題だ。
そもそも、こうなってしまった一番の原因は、有権者になる以前においての政治教育のもろさではないかと私は考えている。政治に対してのダイレクト性がなければ、選挙に行くという意志が生まれないのは当然の話である。
では、そんな背景にある状況の中で、加えてこの極めて短い期間で、若者を選挙へ促すにはどうしたらよいだろうか。
私は、とにかくメディア、大学、地域、家族などが協同し、社会全体であらゆるシーンで選挙に行こうという風潮を作りあげるべきだと考える。その上で、意識も持ち上げ、連携の世界、学びの世界を作りだして、それを選挙へ行く大きなきっかけとしてほしい。
実際に、五月二三日(金)の本紙において沖縄国際大学で県議選候補予定者討論会が行われたという頼もしい記事が掲載されたことを思い出してほしい。きっかけさえ作れば、しっかりと自分の意見も持った意識の高い若者を生み出すことは可能であるのだ。
もちろん、選挙に行って投票するだけでは意味がない。最近は選挙での投票基準の一つとして、メディアの情報に流されるだけであったり、派手なパフォーマンスやネームヴァリューのある候補者を選択するという、実に内実のないものとなっている現実も忘れてはならない。自己責任が渦巻いている日本社会の中で生活しているのであるならば、しっかりと自分の眼で身体で候補者を体感し、その上でしっかりと自分の考えを持った上で投票者を選ぶという、それこそ自己責任論を促し、持たせることが大切だ。
政治は「国民一人ひとりを幸せにするため」のものだと、私は考えている。にもかかわらず、それを左右する選挙を放棄する人が多いということは、自分の生活の権利を放棄している人が多いと捉えても過言ではない。そうしたことを若者だけでなく国民全体が意識し、かつ危機感をも持ちながら、投票日にはぜひ投票所に脚を運んでほしいと切に願う。
2008年05月22日
8度目の新聞掲載
だいぶだいぶ、久しぶりになってしまいました・・・・汗
約半年振りです。。。申し訳ないです。。。
年明けてから、いろいろありましたが、
今は大学院受験の勉強と大学生活を目いっぱいやっているところです。
なんとか10月に笑えればいいのですが・・・・
とにかく今はできる限り励みたいと思っています。
さて、今日5月22日付けの琉球新報の論壇に掲載されました。
今年は論文は控えようと思っていたのですが、
受験勉強をしていて、いろいろ思うところが出てきたので、2時間で書き上げてみました。
全文掲載します。
大学における教員養成教育の見直しを
教育が荒廃している日本社会にとって、教員の質の向上および優秀な教員養成が急務であることは、言わずと知れた課題である。
それを踏まえ教育行政は、教育再生を図るため、昨年度に教員免許更新制を導入し、今年度からは教職大学院を設置し、さらに来年度からは大学での教員養成教育において従来の教育実習とは別に模擬授業などをさせて評価する教職実践演習を大学、短大の教職課程に新設し、来年度から必修科目として加える方針を固めるなど、さまざまな試みを展開させようとしている。
これらを見ると、教育行政において、非常に教員の専門性を培わせようという思惑や努力が表れているのが感じられる。だが残念ながらどれも、一九七二年にイギリスで教師教育の改革として提起されたジェームズ・リポートをそのまま模倣しているだけで、日本の学校現場および養成教育の内実を理解していない感がしてならない。
しかしながら私は、この課題を解決に導くためには、やはり大学での教員養成教育の向上が必要であると考えている。現在の大学での教員養成教育の脆弱性は私自身も実際に大学生活の中で強く感じていることであり、優秀な教員を養成するためには、専門家教育としての質も量も増やしていかねばならないと痛切に感じている。しかし、先日決定された教職実践演習はとても必要で良い決定ではあるのだが、せいぜい十五回の授業を足すだけでは残念ながら学生の大幅な専門性向上は期待できるものではない。もっと、抜本的見直しが必要であるのだ。
私は、大学の教員養成教育が抱えている課題は大きく二つあると考えている。
まず、ほとんどの大学において、一・二年次の教職専門の科目がマスプロ講義で履修させていることである。大学生の学力低下そしてコミュニケーション不足が嘆かれる今日において、このような一斉授業が知識を得られる場になるのか、先につながっていくのか非常に疑問だ。そのため、グループワークをはじめ学生の積極性を促す活動を取り入れる、いわゆる「学びの共同体」の世界を作り出すことが必要だろう。
もう一つは、国際的にも例を見ない短期間の教育実習である。現在わが国で実施されている教育実習期間は二週間から三週間であるが、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスは十週間、ロシアは四十週間、そして学力世界一と言われているフィンランドは一年間という長期的な実習期間を設けている。実際にこれら現場での実習を重要視している諸外国の学生は、卒業後即戦力として活躍している教員が多い。それを踏まえれば、早急に実習期間の拡充が必要なことは間違いない。
無論、これらを実行していくためには、教育行政、学校現場、大学の連携が必要不可欠である。また、既存の制度を改革するには時間も労力も掛かるのは必然でもある。しかし、教育界全体の発展、子どもたちの未来のための礎にきっとなるはずだ。早急な改革を望みたい。
約半年振りです。。。申し訳ないです。。。
年明けてから、いろいろありましたが、
今は大学院受験の勉強と大学生活を目いっぱいやっているところです。
なんとか10月に笑えればいいのですが・・・・
とにかく今はできる限り励みたいと思っています。
さて、今日5月22日付けの琉球新報の論壇に掲載されました。
今年は論文は控えようと思っていたのですが、
受験勉強をしていて、いろいろ思うところが出てきたので、2時間で書き上げてみました。
全文掲載します。
大学における教員養成教育の見直しを
教育が荒廃している日本社会にとって、教員の質の向上および優秀な教員養成が急務であることは、言わずと知れた課題である。
それを踏まえ教育行政は、教育再生を図るため、昨年度に教員免許更新制を導入し、今年度からは教職大学院を設置し、さらに来年度からは大学での教員養成教育において従来の教育実習とは別に模擬授業などをさせて評価する教職実践演習を大学、短大の教職課程に新設し、来年度から必修科目として加える方針を固めるなど、さまざまな試みを展開させようとしている。
これらを見ると、教育行政において、非常に教員の専門性を培わせようという思惑や努力が表れているのが感じられる。だが残念ながらどれも、一九七二年にイギリスで教師教育の改革として提起されたジェームズ・リポートをそのまま模倣しているだけで、日本の学校現場および養成教育の内実を理解していない感がしてならない。
しかしながら私は、この課題を解決に導くためには、やはり大学での教員養成教育の向上が必要であると考えている。現在の大学での教員養成教育の脆弱性は私自身も実際に大学生活の中で強く感じていることであり、優秀な教員を養成するためには、専門家教育としての質も量も増やしていかねばならないと痛切に感じている。しかし、先日決定された教職実践演習はとても必要で良い決定ではあるのだが、せいぜい十五回の授業を足すだけでは残念ながら学生の大幅な専門性向上は期待できるものではない。もっと、抜本的見直しが必要であるのだ。
私は、大学の教員養成教育が抱えている課題は大きく二つあると考えている。
まず、ほとんどの大学において、一・二年次の教職専門の科目がマスプロ講義で履修させていることである。大学生の学力低下そしてコミュニケーション不足が嘆かれる今日において、このような一斉授業が知識を得られる場になるのか、先につながっていくのか非常に疑問だ。そのため、グループワークをはじめ学生の積極性を促す活動を取り入れる、いわゆる「学びの共同体」の世界を作り出すことが必要だろう。
もう一つは、国際的にも例を見ない短期間の教育実習である。現在わが国で実施されている教育実習期間は二週間から三週間であるが、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスは十週間、ロシアは四十週間、そして学力世界一と言われているフィンランドは一年間という長期的な実習期間を設けている。実際にこれら現場での実習を重要視している諸外国の学生は、卒業後即戦力として活躍している教員が多い。それを踏まえれば、早急に実習期間の拡充が必要なことは間違いない。
無論、これらを実行していくためには、教育行政、学校現場、大学の連携が必要不可欠である。また、既存の制度を改革するには時間も労力も掛かるのは必然でもある。しかし、教育界全体の発展、子どもたちの未来のための礎にきっとなるはずだ。早急な改革を望みたい。
2007年12月30日
2007大阪高生研総会シンポジウム in たかつガーデン
12月27日(木)
今年最後の研究会参加は、これでした。
大阪高生研は、とても元気と問題意識、そして幅広い活動を展開しており、
『今こそ学校で憲法を語ろう』を出版したのも、ここでしたし。
そのため、今年、私は3回も大阪へ出向きました(笑)
テーマ「高校で本当に必要な学びとは何かⅢ」
研究者2名と高校教師1名の報告から、
いつものように質疑応答、討議の展開でした。
3名の方の報告での共通点は、いわゆる底辺に位置する人たち(子どもたち)が対象ということ。
格差社会、ワーキングプアが本当に身近である彼らにとっては、
「学ぶ」ということは、無意味であるという観点が強く、
授業に参加する生徒が激減。
また、ひどいことには、一生懸命働いても、夢を持って努力しても、報われることがないため(そもそも働いて、収入を得るのも大変)
生活をしているだけでも、いじめ、排除、無気力、逃避のシーンに陥らざるを得ず、
最悪犯罪を起こしたりや鬱になってしまうことがある現状にあります。
NPO法人で活躍されている報告者の一人は、
今、教育課程からの排除、家族福祉から排除、企業福祉からの排除、公的福祉からの排除、
そして自分自身から排除による、五重の排除によって、
彼らは、生活困窮者へと陥っていると、指摘しています。
このあたりは、政府の社会保障の脆弱さが現れまくっているところであり、
きちんとした政策を考え、実践してもらうことが最重要課題なことであるとは思いますが。
しかし、現状ではそれを訴えてもどうにもならない現実があるので・・・
気を取り直して。
では、こういう状況にある彼らに本当の必要な学びとは何なんでしょうか?
高校教師の方の報告では、現代社会の授業の中で、
スキルの獲得・ネットワークの育成・バーチャルな学びをリアルな学びに変える授業展開を
心がけていたと述べていました。
つまり、興味を持つような授業ということだけでなく、自分の生活にリンクし、
自分が生きていく上で「これは使える!勉強していて意味があった!」という内容の授業を
していくことが、授業参加を促し、学びとなる第一歩であるということです。
そもそも教科書は、中流階級向けに作られたものであり、
それに沿った授業だと、彼らにはそれこそ無意味なものであると捉えることになるでしょう。
う~ん。授業づくりが大変だ・・・(苦笑)
残念ながら、議論する時間がなかったので、結論までには至りませんでした。
もっともっと、深めたい内容ですね。
さて、今年ももう明日でおしまいです。
ごらんになっていただいた方々ありがとうございました。
あまり定期的な更新ができませんでしたが、
私にとって、さまざまな活動ができ、さまざまな方と出会うことができ、
進路もほぼ決めることができたので、
良き1年となったと思っています。
来年は、その進路のための受験勉強が主になりますので、
活動は多少自粛しようと考えていますが、
できるだけ、活動以外で、感じたことや思ったことなどを書いていきたいと思います。
来年もどうぞよろしくお願いします。
今年最後の研究会参加は、これでした。
大阪高生研は、とても元気と問題意識、そして幅広い活動を展開しており、
『今こそ学校で憲法を語ろう』を出版したのも、ここでしたし。
そのため、今年、私は3回も大阪へ出向きました(笑)
テーマ「高校で本当に必要な学びとは何かⅢ」
研究者2名と高校教師1名の報告から、
いつものように質疑応答、討議の展開でした。
3名の方の報告での共通点は、いわゆる底辺に位置する人たち(子どもたち)が対象ということ。
格差社会、ワーキングプアが本当に身近である彼らにとっては、
「学ぶ」ということは、無意味であるという観点が強く、
授業に参加する生徒が激減。
また、ひどいことには、一生懸命働いても、夢を持って努力しても、報われることがないため(そもそも働いて、収入を得るのも大変)
生活をしているだけでも、いじめ、排除、無気力、逃避のシーンに陥らざるを得ず、
最悪犯罪を起こしたりや鬱になってしまうことがある現状にあります。
NPO法人で活躍されている報告者の一人は、
今、教育課程からの排除、家族福祉から排除、企業福祉からの排除、公的福祉からの排除、
そして自分自身から排除による、五重の排除によって、
彼らは、生活困窮者へと陥っていると、指摘しています。
このあたりは、政府の社会保障の脆弱さが現れまくっているところであり、
きちんとした政策を考え、実践してもらうことが最重要課題なことであるとは思いますが。
しかし、現状ではそれを訴えてもどうにもならない現実があるので・・・
気を取り直して。
では、こういう状況にある彼らに本当の必要な学びとは何なんでしょうか?
高校教師の方の報告では、現代社会の授業の中で、
スキルの獲得・ネットワークの育成・バーチャルな学びをリアルな学びに変える授業展開を
心がけていたと述べていました。
つまり、興味を持つような授業ということだけでなく、自分の生活にリンクし、
自分が生きていく上で「これは使える!勉強していて意味があった!」という内容の授業を
していくことが、授業参加を促し、学びとなる第一歩であるということです。
そもそも教科書は、中流階級向けに作られたものであり、
それに沿った授業だと、彼らにはそれこそ無意味なものであると捉えることになるでしょう。
う~ん。授業づくりが大変だ・・・(苦笑)
残念ながら、議論する時間がなかったので、結論までには至りませんでした。
もっともっと、深めたい内容ですね。
さて、今年ももう明日でおしまいです。
ごらんになっていただいた方々ありがとうございました。
あまり定期的な更新ができませんでしたが、
私にとって、さまざまな活動ができ、さまざまな方と出会うことができ、
進路もほぼ決めることができたので、
良き1年となったと思っています。
来年は、その進路のための受験勉強が主になりますので、
活動は多少自粛しようと考えていますが、
できるだけ、活動以外で、感じたことや思ったことなどを書いていきたいと思います。
来年もどうぞよろしくお願いします。
2007年12月11日
名桜大学論文コンクールで奨励賞
先日の第3回名桜大学論文コンクールにて、
私が書いた、
いじめ問題に対する考察①~いじめが社会問題化された背景と現状を考える~が、
奨励賞に選ばれました。
その全文を掲載します。
いじめ問題に対する考察①~いじめが社会問題化された背景と現状を考える~
~はじめに~
相変わらず、教育現場においてのいじめ問題が後を絶たない。今や、教育問題=いじめ問題と語られるのも当たり前の時代になってしまった。私も中学時代にいじめを経験し、2年半不登校という鬱気に見舞われた過去がある。運良く、両親やまわりの人間に支えられたおかげで立ち直り、今は毎日が楽しい日々を送れているのだが、残念ながらこういった私のようなポジティブな状況に転じている子どもは非常に少ないのが現状だ。
その現状を受けて、メディアや各教育界の学会、研究会では必ずといっていいほどいじめ問題がクローズアップされている。その流れにようやく政府も重い腰を上げ、文部科学省や教育再生会議において、さまざまな提言がされるようになった。
しかしいやむしろといっていいほど、定期的にと表現できてしまうくらい頻繁に過度で残忍ないじめ問題が発生し、ひいてはいじめを苦に自殺という選択をしてしまう子どもたちも増えている。
これは内地の現象だけではなく、沖縄の教育現場でも自殺者は報道されてはいないものの、いじめという現象にまで発展する荒れた学校は増え、当該者の子どもたちはもちろんのこと、教師や保護者も頭を悩ましている。
そもそも、なぜこんなことが社会現象化してしまったのだろうか。
各方面でこの問題はあらゆる視点で指摘および提言がされているが、改めてこの問題を振り返りたいという意味もあり、この論文を著作することにした。
文字数も限られているので、今回は考察①というタイトルにし、まずはイントロダクション的な論文に仕上げたいと思う。
~いじめが社会問題化したきっかけ~
いじめ問題がクローズアップされるようになったのは、いじめを理由とする子どもの自殺であった。1986年に東京都で当時中学2年生の鹿川裕史君が担任教師も加わった「葬式ごっこ」と呼ばれるいじめが原因での自殺事件が最初である。今では、当たり前(という発言は不謹慎であるが)のように発生している自殺事件だが、当時は非常にセンセーショナルなニュースとして社会全体で話題となった事件であった。
それからは、1994年に愛知県西尾市で当時中学2年生の大河内清輝君が遊び仲間から執拗ないじめが原因で自殺した事件、最近で言うと2006年に福岡県筑前町で当時中学2年生の森啓祐君が教師も加担した陰湿ないじめが原因で自殺した事件など、頻繁にいじめによる自殺事件がメディアによって報道され、問題視されるようになった。
もちろんこれらの事件は、メディアにおいて広く社会に浸透しているだけであって、他にもいじめによって自殺した子どもたちが多数いる。実際に文部科学省の調べでは、1984年から1998年の間にいじめにより自殺した子どもが39人いると発表している。(ただでさえ、文部科学省や教育現場ではいじめによる自殺者を公表したくないのに!)そのため、現在はさらにいじめによる自殺した子どもたちが多発しているのを鑑みるとその数は増加の一途をたどっていることが予想されるだろう。(しかし、1999年から2005年度まではいじめを原因とする自殺者はゼロとなっている。これは明らかにおかしい。)
~ここ20年でいじめ問題が顕在化されるようになったのは~
しかし、おさえておくべきことは、いじめという行為は昔から起きてきたことであるということだ。生活指導研究の第一人者である竹内常一は、「子どもというものは先天的に暴力的なものである。そして自己形成が未発達な彼らは、自分たちの世界を作るために、ケンカをしながらルールを作り、時には逸脱行為をしている子どもをいじめて、集団作りを形成させていったものである。もちろんその集団の中には、民主制が成り立っていたので、いじめられた子どもも後には仲間として認められ、共にその子ども世界を形成していった。」と述べており、いじめという行為は、以前までは子ども社会の中で当たり前いや文化形成を成り立たせるためには必要不可欠と言って良い行為であったといえよう。
ではなぜ、この20年という短い間にいじめ問題が顕著になり、これほどまでにいじめという行為が絶対悪と表現され、自殺はもちろん嫌な思い出や体験の要因になるものとして捉えられるようになったのだろうか。
日本教育学会会長の佐藤学は、「そもそもいじめという行為は人間社会の中では自然と発生してしまう現象である。そして本来であれば、協同性を持つべきはずの学校社会においてその行為は自然と解決していくものである。だが、残念ながらそのような民主主義概念が崩壊してしまっている現状がある。」と述べている。つまり、現代の教育現場においては(教育現場だけにとらわれてはいけないとも感じるが)、子どもたちの民主性が脆弱化ないし消滅化しており、関係性の矛盾や歪みが発生していると佐藤は強調している。
また、竹内常一は、「現在広がっているいじめを絶対悪と捉える概念・思想が間違っている。現在のいじめ問題は『いじめ』というよりも『迫害』であり、それを大人がそれを見過ごしたり、ひいてはけしかけたりすることが問題なのである。加えて、現在はいじめという現象が起きたとたんに、学校いや私たちのとりまく世界全体で問題化され、うわべだけの人間関係のみがこの社会で作られている。つまり、いじめという行為を意識化することだけでもタブーになっている現代社会では、結果的には子どもたちの純粋な関係性を摘むことになってしまうのだ。」と述べている。
となると、民主主義概念や関係性が欠落し、いじめの質が変わってきている時代背景を改めて捉え直すことが必要となってくる。
そこで、まずは子どもたちの非行や荒れの時代の波に触れておきたい。いわゆるいじめ(加害者に対して)も含めた子どもたちの逸脱行為を非行とさすのだが、その流れは大まかに四つの波に分けられる。
第一の波 1951年~
敗戦直後の社会的混乱や経済的困窮に起因。
第二の波 1964年~
高度経済成長や都市化などに起因。
第三の波 1983年~
物資的な豊かさが顕著になる半面、万引きや自転車窃盗、校内暴力が特徴的。
第四の波 1997年~
自己中心性が目立ち、犯行意図の不透明性や前歴なき突発的反抗が特徴的。
これらを鑑みると、第三の波においての流れ、要するに1980年代からいじめという行為が残忍なものへと変換していっていることが指摘できる。
次に、現代的な(最近の)いじめの特徴を述べておきたい。代表的なものをピックアップしてみると、可視性の低下、立場の入れ替わり、スティグマの拡大、集合化、歯止めの消失、非行との接近などが挙げられる。
これは、現在子どもたちの世界で起こっているいじめが過度なものとなっていることと、行為自体が陰湿で潜在性を持っていることが指摘でき、今の大人たちがかつて経験したものとは質的、内容的に異なるということが証明することができるだろう。
これらを踏まえて、この20年を改めて振り返ってみると、戦後から高度経済成長を経て経済大国へと進展した日本社会が新自由主義体制へと変貌していったことに、いじめが問題化されている背景を探る大きなキーポイントとして挙げることができそうだ。つまり、これまで日本国民に潜在的にあった帰属意識、共存観などといったものが薄れ、自分中心主義の感覚が浸透し、現在のような個人が個体化され分断し、競争させ、勝者と敗者を作りだすといった新自由主義のイデオロギーが日本を取り巻くようになったことで、子どもたちの社会の中でも他者を思う気持ちやモラルといったいわゆる道徳観、倫理観が社会全体で失われた。そのことで、いじめという行為が竹内が述べていたような関係性を強固にするものではなく、現在浸透している仲間外しやリンチなどといった残忍な暴力行為へと変わっていったということである。
~無力化している子どもたち~
また、この新自由主義のイデオロギーが浸透した状況は、子どもたちにとって学校で教えられる内容では自分の人生の何がはっきりしてくるのかが全くわからない状態におかれてしまい、将来はおろかアイデンティティを見出すことも不透明になっていることが強調できる。
だがそれでも、例えばフリーターやニートといった下流な生き方をしても、若いうちはそれなりに生活ができてしまう恵まれた環境下にある日本では、自分自身を直視することをやめてしまい、逆に特異な他者を嘲笑して毎日を送る、人間としては最悪とも表現できるまやかし的な文化形態が成立してしまっているのだ。
このような事態は、まさに新自由主義のイデオロギーがもたらした副作用的反動であるといえ、いじめがこれほどまでに問題化され、実情もひどくなってしまっている要因とも言えよう。
~その場限りの対症療法になっている現状~
だが、このような事実が指摘できるにもかかわらず、教育現場や政府では、効果的な対処法を見出さず、その場限りの対処療法ばかりを唱えているだけある。
例えば、政府は教育再生会議の第一次報告ではいじめや暴力行為を繰り返す子どもに対して出席停止措置を講じるよう明記した。つまり、この案はいじめ行為が発覚した場合、その加害した子どもを即出席停止という制裁を与えることでいじめを抑圧しようという考えである。しかし、このような制御は実に一時的な対策でしかすぎず、むしろ加害者を逆撫でし、しばらく時間が経てばいじめは前よりもエスカレートして復活するという構図を全く理解していない。
また、教育現場でも、いじめられている子どもに対していじめが発生している原因や背景を考えることなくその子に転校を促す行為をしているところが多い現状にある。他者との関係性が問題になっている子どもに対してのその行為は、「違う学校でいじめを受けてくれ」と言っているようなもので、これではいじめられている子どもがその学校から厄介払いをされていると表現してもおかしくない。また、いじめ問題が顕著になってくると、きまって「いじめを受けていたらすぐに先生に言いましょう」、「いじめは悪いことですからやめましょう」などというような促し方がマニュアル化されているように蔓延っているが、思春期を迎えている子どもがいじめによって受けた耐え難い屈辱感を簡単に話せるものだろうか。加えて、いじめている方に対しても、いじめている意識はさらさらなく(無意識であったり、遊びだという感覚がほとんどである)、その発言での効果は皆無だと言っていい。
にもかかわらず、これらのことが毎回のようにされているがために、いじめの根源を発見できず、つまりは反省を生かすこともできないので、定期的にいじめ問題が浮き彫りとなり、対処に追われるという堂々巡りが繰り返されている。これでは、大人が持つべき想像力、観察力、洞察力そして指導力が社会全体において欠けていると言われても仕方のないことであろう。
~対処法としては~
では、実際に正しいいじめの対処方法を考えてみたいのだが、前途した要因はあくまでも一因にしかすぎず、さらに教育現場が複雑化を極めている現状では、「こうすれば良い」と言い切る実践方法、対処方法は危険性を伴うことを頭に入れておく必要がある。
だが、この20年で大きな変貌を遂げてしまった日本社会において、子どもたちは、孤立化し居場所がなくなっているという事実は真理であり、いかにして子どもたちに寄り添い、その中で子どもたちの文化を取り戻すことを促し、子どもたちの関係性を再構築していくことはいじめ問題を克服するためには必要なファクターであることは言うまでもない。加えて、子どもたちの集団問題だけでなく、大人社会とのコミュニケートが脆弱化していることも見逃すことはできず、そのことが子どもたちの暴力性や攻撃性が強まり、いじめが残酷化されている要因として挙げることもしっかりとおさえておきたい。
そのため、いじめを抑圧することも度が過ぎる場面においては必要ではあるが、まずは荒廃している子どもたちの心にやさしく迫り、いじめている側もいじめられている側も「安心・安全・安定」の世界を構築させていくことが必要であるだろう。それを踏まえると、校務分掌に追われ多忙を極めている教師の現状を考えれば、教育現場で賛否両論のあるスクールカウンセラーも積極的に配置することも一考に入れるべきだ。
そして、新自由主義のイデオロギーが蔓延っていることにより、多様な思想や生き方が子どもたちの中でも存在するようになったことを理解したうえで、それを包括的に受け入れる異質協同で対話のある世界を創造させていくことが今の教育現場では求められているだろう。さすれば、いじめ問題はもちろんのこと、荒れや非行といった諸々の教育問題を克服する礎となることができると私は考える。
~多面的な問題意識を~
今の子どもたちは、いじめを3人に1人が経験しているとされている。ということは、今も苦しんでいる子どもが多数いるということだ。
だが、十人十色ということわざがあるように、子どもたちもさまざまで、みなオリジナリティをもっている。そのことを鑑みれば、「教育には答えがない」と定義していいだろう。そのため、いじめはもちろんのこと、教育問題が発生したときは、マニュアルに依存せずその子どもにおかれている立場、環境、背景などをしっかり踏まえたうえで対処していかねばならない。それは、多面的に渡って問題意識を常に持っておくことが必要ということでもある。
また、今の日本社会の構造が子どもたちにとって、とても生きづらくなっていることを頭に入れておく必要がある。そういった意味では、教育の実権を握っている政府や教育現場に対して、プラスであれマイナスであれ国民一人ひとりがさまざまな声を上げていくことが求められている時代である。だが、個人自体は自律していない現状の日本社会を鑑みれば、新自由主義社会となっていると言っても、結局は国主導で動く新保守主義のイデオロギーのなかに私たちは属しているのだと感じる。そこが今の日本社会全体の課題であるだろう。
~おわりに~
教育の根本は「すべての子どもたちにとって、これからが明るく希望のあふれた未来でなくてはならない」ことだと、私は考えている。だが、いじめ問題の深刻化によりそれが達成できているとは冗談でも言い難く、悲しいことにこのままではこれからもいじめ問題に関しての悲劇は続いていくことであろう。いじめにより苦しんでいる子どもたちが、今の日本社会がもたらした被害者であるからだ。
しかし、それが理解できているのなら、必ずやいじめ克服の鍵がその現場において見つけ出し、その子どもたちを救い出すことができるはずだ。それを忘れないでほしい。
そして、あくまでも今回の論考は前途したようにイントロダクション的なもので、いじめ問題のアウトラインでの指摘にしかすぎない。いじめに苦しむ子どもたちすべてを救えるようになりたいと考えている私にとって、ますます実践理論の研究および提言をしていかねばならないと感じている。これからの活動に期待しておいてほしい。
【参考文献および資料】
・絹村俊明 「高校教師は『いじめ』問題とどう向き合うか」
高生研第45回全国大会紀要 2007年
・豊田充 「いじめはなぜ防げないのか~葬式ごっこから21年~」
朝日新聞社 2007年
・伊藤茂樹編著 「日本の教育と社会⑧いじめ・不登校」 日本図書センター 2007年
・折出健二ほか著 「いじめ自殺~子を亡くした親たちのメッセージ~」
かもがわ出版 1998年
・村山士郎ほか編著 「いじめ自殺 子どもたちの叫び」 大月書店 2007年
・竹内常一 「10代との対話 学校ってなあに」 青木書店 1998年
・日本教育方法学会編 「現代教育方法事典」 図書文化社 2004年
・全生研編 「生活指導2007年5月号」明治図書 2007年
・高生研神奈川支部編 「新自由主義に打ち克つ未来を足下から」
高生研神奈川支部第34号 2007年
【注】
・竹内常一および佐藤学の発言は、著者自身が各学会および個人的に本人からヒアリングしたものである。
私が書いた、
いじめ問題に対する考察①~いじめが社会問題化された背景と現状を考える~が、
奨励賞に選ばれました。
その全文を掲載します。
いじめ問題に対する考察①~いじめが社会問題化された背景と現状を考える~
~はじめに~
相変わらず、教育現場においてのいじめ問題が後を絶たない。今や、教育問題=いじめ問題と語られるのも当たり前の時代になってしまった。私も中学時代にいじめを経験し、2年半不登校という鬱気に見舞われた過去がある。運良く、両親やまわりの人間に支えられたおかげで立ち直り、今は毎日が楽しい日々を送れているのだが、残念ながらこういった私のようなポジティブな状況に転じている子どもは非常に少ないのが現状だ。
その現状を受けて、メディアや各教育界の学会、研究会では必ずといっていいほどいじめ問題がクローズアップされている。その流れにようやく政府も重い腰を上げ、文部科学省や教育再生会議において、さまざまな提言がされるようになった。
しかしいやむしろといっていいほど、定期的にと表現できてしまうくらい頻繁に過度で残忍ないじめ問題が発生し、ひいてはいじめを苦に自殺という選択をしてしまう子どもたちも増えている。
これは内地の現象だけではなく、沖縄の教育現場でも自殺者は報道されてはいないものの、いじめという現象にまで発展する荒れた学校は増え、当該者の子どもたちはもちろんのこと、教師や保護者も頭を悩ましている。
そもそも、なぜこんなことが社会現象化してしまったのだろうか。
各方面でこの問題はあらゆる視点で指摘および提言がされているが、改めてこの問題を振り返りたいという意味もあり、この論文を著作することにした。
文字数も限られているので、今回は考察①というタイトルにし、まずはイントロダクション的な論文に仕上げたいと思う。
~いじめが社会問題化したきっかけ~
いじめ問題がクローズアップされるようになったのは、いじめを理由とする子どもの自殺であった。1986年に東京都で当時中学2年生の鹿川裕史君が担任教師も加わった「葬式ごっこ」と呼ばれるいじめが原因での自殺事件が最初である。今では、当たり前(という発言は不謹慎であるが)のように発生している自殺事件だが、当時は非常にセンセーショナルなニュースとして社会全体で話題となった事件であった。
それからは、1994年に愛知県西尾市で当時中学2年生の大河内清輝君が遊び仲間から執拗ないじめが原因で自殺した事件、最近で言うと2006年に福岡県筑前町で当時中学2年生の森啓祐君が教師も加担した陰湿ないじめが原因で自殺した事件など、頻繁にいじめによる自殺事件がメディアによって報道され、問題視されるようになった。
もちろんこれらの事件は、メディアにおいて広く社会に浸透しているだけであって、他にもいじめによって自殺した子どもたちが多数いる。実際に文部科学省の調べでは、1984年から1998年の間にいじめにより自殺した子どもが39人いると発表している。(ただでさえ、文部科学省や教育現場ではいじめによる自殺者を公表したくないのに!)そのため、現在はさらにいじめによる自殺した子どもたちが多発しているのを鑑みるとその数は増加の一途をたどっていることが予想されるだろう。(しかし、1999年から2005年度まではいじめを原因とする自殺者はゼロとなっている。これは明らかにおかしい。)
~ここ20年でいじめ問題が顕在化されるようになったのは~
しかし、おさえておくべきことは、いじめという行為は昔から起きてきたことであるということだ。生活指導研究の第一人者である竹内常一は、「子どもというものは先天的に暴力的なものである。そして自己形成が未発達な彼らは、自分たちの世界を作るために、ケンカをしながらルールを作り、時には逸脱行為をしている子どもをいじめて、集団作りを形成させていったものである。もちろんその集団の中には、民主制が成り立っていたので、いじめられた子どもも後には仲間として認められ、共にその子ども世界を形成していった。」と述べており、いじめという行為は、以前までは子ども社会の中で当たり前いや文化形成を成り立たせるためには必要不可欠と言って良い行為であったといえよう。
ではなぜ、この20年という短い間にいじめ問題が顕著になり、これほどまでにいじめという行為が絶対悪と表現され、自殺はもちろん嫌な思い出や体験の要因になるものとして捉えられるようになったのだろうか。
日本教育学会会長の佐藤学は、「そもそもいじめという行為は人間社会の中では自然と発生してしまう現象である。そして本来であれば、協同性を持つべきはずの学校社会においてその行為は自然と解決していくものである。だが、残念ながらそのような民主主義概念が崩壊してしまっている現状がある。」と述べている。つまり、現代の教育現場においては(教育現場だけにとらわれてはいけないとも感じるが)、子どもたちの民主性が脆弱化ないし消滅化しており、関係性の矛盾や歪みが発生していると佐藤は強調している。
また、竹内常一は、「現在広がっているいじめを絶対悪と捉える概念・思想が間違っている。現在のいじめ問題は『いじめ』というよりも『迫害』であり、それを大人がそれを見過ごしたり、ひいてはけしかけたりすることが問題なのである。加えて、現在はいじめという現象が起きたとたんに、学校いや私たちのとりまく世界全体で問題化され、うわべだけの人間関係のみがこの社会で作られている。つまり、いじめという行為を意識化することだけでもタブーになっている現代社会では、結果的には子どもたちの純粋な関係性を摘むことになってしまうのだ。」と述べている。
となると、民主主義概念や関係性が欠落し、いじめの質が変わってきている時代背景を改めて捉え直すことが必要となってくる。
そこで、まずは子どもたちの非行や荒れの時代の波に触れておきたい。いわゆるいじめ(加害者に対して)も含めた子どもたちの逸脱行為を非行とさすのだが、その流れは大まかに四つの波に分けられる。
第一の波 1951年~
敗戦直後の社会的混乱や経済的困窮に起因。
第二の波 1964年~
高度経済成長や都市化などに起因。
第三の波 1983年~
物資的な豊かさが顕著になる半面、万引きや自転車窃盗、校内暴力が特徴的。
第四の波 1997年~
自己中心性が目立ち、犯行意図の不透明性や前歴なき突発的反抗が特徴的。
これらを鑑みると、第三の波においての流れ、要するに1980年代からいじめという行為が残忍なものへと変換していっていることが指摘できる。
次に、現代的な(最近の)いじめの特徴を述べておきたい。代表的なものをピックアップしてみると、可視性の低下、立場の入れ替わり、スティグマの拡大、集合化、歯止めの消失、非行との接近などが挙げられる。
これは、現在子どもたちの世界で起こっているいじめが過度なものとなっていることと、行為自体が陰湿で潜在性を持っていることが指摘でき、今の大人たちがかつて経験したものとは質的、内容的に異なるということが証明することができるだろう。
これらを踏まえて、この20年を改めて振り返ってみると、戦後から高度経済成長を経て経済大国へと進展した日本社会が新自由主義体制へと変貌していったことに、いじめが問題化されている背景を探る大きなキーポイントとして挙げることができそうだ。つまり、これまで日本国民に潜在的にあった帰属意識、共存観などといったものが薄れ、自分中心主義の感覚が浸透し、現在のような個人が個体化され分断し、競争させ、勝者と敗者を作りだすといった新自由主義のイデオロギーが日本を取り巻くようになったことで、子どもたちの社会の中でも他者を思う気持ちやモラルといったいわゆる道徳観、倫理観が社会全体で失われた。そのことで、いじめという行為が竹内が述べていたような関係性を強固にするものではなく、現在浸透している仲間外しやリンチなどといった残忍な暴力行為へと変わっていったということである。
~無力化している子どもたち~
また、この新自由主義のイデオロギーが浸透した状況は、子どもたちにとって学校で教えられる内容では自分の人生の何がはっきりしてくるのかが全くわからない状態におかれてしまい、将来はおろかアイデンティティを見出すことも不透明になっていることが強調できる。
だがそれでも、例えばフリーターやニートといった下流な生き方をしても、若いうちはそれなりに生活ができてしまう恵まれた環境下にある日本では、自分自身を直視することをやめてしまい、逆に特異な他者を嘲笑して毎日を送る、人間としては最悪とも表現できるまやかし的な文化形態が成立してしまっているのだ。
このような事態は、まさに新自由主義のイデオロギーがもたらした副作用的反動であるといえ、いじめがこれほどまでに問題化され、実情もひどくなってしまっている要因とも言えよう。
~その場限りの対症療法になっている現状~
だが、このような事実が指摘できるにもかかわらず、教育現場や政府では、効果的な対処法を見出さず、その場限りの対処療法ばかりを唱えているだけある。
例えば、政府は教育再生会議の第一次報告ではいじめや暴力行為を繰り返す子どもに対して出席停止措置を講じるよう明記した。つまり、この案はいじめ行為が発覚した場合、その加害した子どもを即出席停止という制裁を与えることでいじめを抑圧しようという考えである。しかし、このような制御は実に一時的な対策でしかすぎず、むしろ加害者を逆撫でし、しばらく時間が経てばいじめは前よりもエスカレートして復活するという構図を全く理解していない。
また、教育現場でも、いじめられている子どもに対していじめが発生している原因や背景を考えることなくその子に転校を促す行為をしているところが多い現状にある。他者との関係性が問題になっている子どもに対してのその行為は、「違う学校でいじめを受けてくれ」と言っているようなもので、これではいじめられている子どもがその学校から厄介払いをされていると表現してもおかしくない。また、いじめ問題が顕著になってくると、きまって「いじめを受けていたらすぐに先生に言いましょう」、「いじめは悪いことですからやめましょう」などというような促し方がマニュアル化されているように蔓延っているが、思春期を迎えている子どもがいじめによって受けた耐え難い屈辱感を簡単に話せるものだろうか。加えて、いじめている方に対しても、いじめている意識はさらさらなく(無意識であったり、遊びだという感覚がほとんどである)、その発言での効果は皆無だと言っていい。
にもかかわらず、これらのことが毎回のようにされているがために、いじめの根源を発見できず、つまりは反省を生かすこともできないので、定期的にいじめ問題が浮き彫りとなり、対処に追われるという堂々巡りが繰り返されている。これでは、大人が持つべき想像力、観察力、洞察力そして指導力が社会全体において欠けていると言われても仕方のないことであろう。
~対処法としては~
では、実際に正しいいじめの対処方法を考えてみたいのだが、前途した要因はあくまでも一因にしかすぎず、さらに教育現場が複雑化を極めている現状では、「こうすれば良い」と言い切る実践方法、対処方法は危険性を伴うことを頭に入れておく必要がある。
だが、この20年で大きな変貌を遂げてしまった日本社会において、子どもたちは、孤立化し居場所がなくなっているという事実は真理であり、いかにして子どもたちに寄り添い、その中で子どもたちの文化を取り戻すことを促し、子どもたちの関係性を再構築していくことはいじめ問題を克服するためには必要なファクターであることは言うまでもない。加えて、子どもたちの集団問題だけでなく、大人社会とのコミュニケートが脆弱化していることも見逃すことはできず、そのことが子どもたちの暴力性や攻撃性が強まり、いじめが残酷化されている要因として挙げることもしっかりとおさえておきたい。
そのため、いじめを抑圧することも度が過ぎる場面においては必要ではあるが、まずは荒廃している子どもたちの心にやさしく迫り、いじめている側もいじめられている側も「安心・安全・安定」の世界を構築させていくことが必要であるだろう。それを踏まえると、校務分掌に追われ多忙を極めている教師の現状を考えれば、教育現場で賛否両論のあるスクールカウンセラーも積極的に配置することも一考に入れるべきだ。
そして、新自由主義のイデオロギーが蔓延っていることにより、多様な思想や生き方が子どもたちの中でも存在するようになったことを理解したうえで、それを包括的に受け入れる異質協同で対話のある世界を創造させていくことが今の教育現場では求められているだろう。さすれば、いじめ問題はもちろんのこと、荒れや非行といった諸々の教育問題を克服する礎となることができると私は考える。
~多面的な問題意識を~
今の子どもたちは、いじめを3人に1人が経験しているとされている。ということは、今も苦しんでいる子どもが多数いるということだ。
だが、十人十色ということわざがあるように、子どもたちもさまざまで、みなオリジナリティをもっている。そのことを鑑みれば、「教育には答えがない」と定義していいだろう。そのため、いじめはもちろんのこと、教育問題が発生したときは、マニュアルに依存せずその子どもにおかれている立場、環境、背景などをしっかり踏まえたうえで対処していかねばならない。それは、多面的に渡って問題意識を常に持っておくことが必要ということでもある。
また、今の日本社会の構造が子どもたちにとって、とても生きづらくなっていることを頭に入れておく必要がある。そういった意味では、教育の実権を握っている政府や教育現場に対して、プラスであれマイナスであれ国民一人ひとりがさまざまな声を上げていくことが求められている時代である。だが、個人自体は自律していない現状の日本社会を鑑みれば、新自由主義社会となっていると言っても、結局は国主導で動く新保守主義のイデオロギーのなかに私たちは属しているのだと感じる。そこが今の日本社会全体の課題であるだろう。
~おわりに~
教育の根本は「すべての子どもたちにとって、これからが明るく希望のあふれた未来でなくてはならない」ことだと、私は考えている。だが、いじめ問題の深刻化によりそれが達成できているとは冗談でも言い難く、悲しいことにこのままではこれからもいじめ問題に関しての悲劇は続いていくことであろう。いじめにより苦しんでいる子どもたちが、今の日本社会がもたらした被害者であるからだ。
しかし、それが理解できているのなら、必ずやいじめ克服の鍵がその現場において見つけ出し、その子どもたちを救い出すことができるはずだ。それを忘れないでほしい。
そして、あくまでも今回の論考は前途したようにイントロダクション的なもので、いじめ問題のアウトラインでの指摘にしかすぎない。いじめに苦しむ子どもたちすべてを救えるようになりたいと考えている私にとって、ますます実践理論の研究および提言をしていかねばならないと感じている。これからの活動に期待しておいてほしい。
【参考文献および資料】
・絹村俊明 「高校教師は『いじめ』問題とどう向き合うか」
高生研第45回全国大会紀要 2007年
・豊田充 「いじめはなぜ防げないのか~葬式ごっこから21年~」
朝日新聞社 2007年
・伊藤茂樹編著 「日本の教育と社会⑧いじめ・不登校」 日本図書センター 2007年
・折出健二ほか著 「いじめ自殺~子を亡くした親たちのメッセージ~」
かもがわ出版 1998年
・村山士郎ほか編著 「いじめ自殺 子どもたちの叫び」 大月書店 2007年
・竹内常一 「10代との対話 学校ってなあに」 青木書店 1998年
・日本教育方法学会編 「現代教育方法事典」 図書文化社 2004年
・全生研編 「生活指導2007年5月号」明治図書 2007年
・高生研神奈川支部編 「新自由主義に打ち克つ未来を足下から」
高生研神奈川支部第34号 2007年
【注】
・竹内常一および佐藤学の発言は、著者自身が各学会および個人的に本人からヒアリングしたものである。
2007年12月06日
模擬授業について考える。
また久しぶりの更新になってしまいました。
ここのところ・・・
名古屋へ整膚の勉強(卒論研究にしようと考えています、新しいマッサージです)へ行き、
父親が倒れて東京に帰り(急性膵臓炎だったので大したことなくよかったです)、
名桜祭があり、などなど、なかなか多忙でパソコンに向かう時間がありませんでした。
12月に入り、今は多少バーンアウト傾向ですが、気合をいれなおしていきたいと思います。
さて、今日は模擬授業について考えてみたいと思います。
私は大学3年生で、保健体育の中高免許の取得も目指しています。
当然のことながら、教職の授業も多いわけですが、
後期に入ってから、模擬授業を学生が行って授業展開させていくというスタイルの講義が多くなってきました。
私としては、理論もまともに得ていないのに、理論および知識習得をそっちのけで、
模擬授業をとにかくやりまくるというスタイルはいささか疑問を感じています。
確かに、即実践のためにはこうした経験が必要なのも理解できますが、
ただでさえ指導力不足(私はこれを専門性の不足と捉えています)と
表現されてしまっている若い世代の教師がいることを考えると、
その前にやることが山ほどあるのではないかと思うわけです。
まぁそうやいのやいの言っても授業の内容が変わるわけではないので、
その中で、私は得られるものを見つけて、自分のものとしていこうとは思っていますが。
少し愚痴っぽくなってしまいました。
気を取り直して。
その模擬授業ですが、授業者が10分~30分の模擬授業を行い、
生徒役の学生および先生が批評していくというスタイルが大方だと思います。
そこでいつも思うのは、批判的な意見ばかりが飛び交うこと。
人間という生き物は、批判することが先天的に好きな生き物で、
かつ欠点というものは簡単に見つかるものです。
しかしそれでは、得られるものは少なく、
せっかく頑張った授業者が浮かばれませんし、
模擬授業に参加した学生の学びにもあまりならないでしょう。
もちろん、批判的意見も必要ですが、肯定的意見も考える。
それが、生徒役、監視役の力量が問われていると感じます。
そして、それを促す司会役もその役目は重要でしょう。
ここのところ・・・
名古屋へ整膚の勉強(卒論研究にしようと考えています、新しいマッサージです)へ行き、
父親が倒れて東京に帰り(急性膵臓炎だったので大したことなくよかったです)、
名桜祭があり、などなど、なかなか多忙でパソコンに向かう時間がありませんでした。
12月に入り、今は多少バーンアウト傾向ですが、気合をいれなおしていきたいと思います。
さて、今日は模擬授業について考えてみたいと思います。
私は大学3年生で、保健体育の中高免許の取得も目指しています。
当然のことながら、教職の授業も多いわけですが、
後期に入ってから、模擬授業を学生が行って授業展開させていくというスタイルの講義が多くなってきました。
私としては、理論もまともに得ていないのに、理論および知識習得をそっちのけで、
模擬授業をとにかくやりまくるというスタイルはいささか疑問を感じています。
確かに、即実践のためにはこうした経験が必要なのも理解できますが、
ただでさえ指導力不足(私はこれを専門性の不足と捉えています)と
表現されてしまっている若い世代の教師がいることを考えると、
その前にやることが山ほどあるのではないかと思うわけです。
まぁそうやいのやいの言っても授業の内容が変わるわけではないので、
その中で、私は得られるものを見つけて、自分のものとしていこうとは思っていますが。
少し愚痴っぽくなってしまいました。
気を取り直して。
その模擬授業ですが、授業者が10分~30分の模擬授業を行い、
生徒役の学生および先生が批評していくというスタイルが大方だと思います。
そこでいつも思うのは、批判的な意見ばかりが飛び交うこと。
人間という生き物は、批判することが先天的に好きな生き物で、
かつ欠点というものは簡単に見つかるものです。
しかしそれでは、得られるものは少なく、
せっかく頑張った授業者が浮かばれませんし、
模擬授業に参加した学生の学びにもあまりならないでしょう。
もちろん、批判的意見も必要ですが、肯定的意見も考える。
それが、生徒役、監視役の力量が問われていると感じます。
そして、それを促す司会役もその役目は重要でしょう。
2007年11月15日
久々は本の告知で

最近更新が滞っていて申し訳ありません。
いろいろと無駄に忙しく、ブログを書いている暇がありません。。。(汗)
明日から名古屋へ卒論研究プラス研修へいってまいります。
ちなみに整膚という中国が生んだ新しい整術です。
興味がある方は下記サイトまで。
http://www.ki.rim.or.jp/~seifu/
さて、メールでお教えした人も多いのですが。
11月20日前後に、
『今こそ学校で憲法を語ろう』
編著 渡辺治・佐藤功・竹内常一
青木書店 1600円+税
という本が発売になります。
そこで、第2章にヒロチの発言および論調が4ページほど掲載されています。
まぁ幼稚な文章ではありますが、ついに本デビューしました。
しかし、それ云々もありますが、それ以上に、教育に携わる人、教員になりたい人にとって、教基法、教育三法が改正され、憲法改正へと動いている今の日本を鑑みると、憲法に対する理解は必要不可欠に感じます。
ところが、政治、憲法については難しい・・・という印象がほとんどですし、実際難しい本ばかりです。
この本は、憲法学、教育学、そして学校現場の視点から考えた憲法本であり、ユーモアあり、もちろん核心部分はつく、面白い本になっています。
ぜひ、書店で見かけたら、手にとって見てみてください。
ちなみにヒロチはもう現物を持っているので、興味があったら声をかけてください。
明日から月曜まで名古屋なのですが。
また、もし欲しいという方がいらしたら、ヒロチに連絡を。
1500円税無しで手に入りますので。
ちなみに東京には年末に帰ります。
2007年10月03日
一区切りついて。
途中、教科研と沖縄県のあるPTA連合会のレポも書きましたが、
とりあえず、夏休み中の活動レポは前回で終了。
結構な量になってしまいましたね(笑)
憲法学習会については、11月にその内容の本が出版される予定で、
そこに私の意見もいくらか入っています。また告知します。
さて、ようやく一区切りつけることができたので、
論文執筆にとりかかろうと思います。
10月末が締め切り。果たして間に合うかどうか。
これが終わったら、いい加減、英語の勉強に力を注ぎたいと思います。
今後の予定
10月14日(日)沖縄高生研 秋の学習会 in 陽明高校セミナーハウス(参加未定)
10月26日(金)第230回沖縄教育科学研究会
10月27日(土)第2回「学校-仕事 子ども・若者の将来創造」研究会(参加未定)
11月24日(土)九州教育学会 in 琉球大学
とりあえず、夏休み中の活動レポは前回で終了。
結構な量になってしまいましたね(笑)
憲法学習会については、11月にその内容の本が出版される予定で、
そこに私の意見もいくらか入っています。また告知します。
さて、ようやく一区切りつけることができたので、
論文執筆にとりかかろうと思います。
10月末が締め切り。果たして間に合うかどうか。
これが終わったら、いい加減、英語の勉強に力を注ぎたいと思います。
今後の予定
10月14日(日)沖縄高生研 秋の学習会 in 陽明高校セミナーハウス(参加未定)
10月26日(金)第230回沖縄教育科学研究会
10月27日(土)第2回「学校-仕事 子ども・若者の将来創造」研究会(参加未定)
11月24日(土)九州教育学会 in 琉球大学
2007年10月02日
第25回日本生活指導学会 in 北海道大学
9月1日(土)~2日(日)
夏休みの学会めぐりもこれが最後。
去年も参加した学会ですが、そのときは恩師についてまわったという感じだったので、
今回は独り身でどれだけ学べるかという楽しみを持って臨みました。
独り身ではありましたが、
比較的、リラックスして臨めたかなと思います。
課題研究A
人権侵害における加害と被害
日本生活指導学会は、矯正教育(いわゆる少年院での教育)に対する実践報告発表を、
毎年行っている数少ない学会です。
実例報告は少ないものの、今の子どもたちの心の歪みが顕著に現れている
矯正教育の現場の中での報告は、非常に勉強になります。
報告された先生は昨年も報告されていましたが、
前にも述べているように、昨年はついていくだけという感じだったので、
今年は自分のものにできるように気合を入れて報告を聴いていました。
今回は、内的ワーキングモデルと被害・加害関係の連鎖について、
深く報告と議論が展開されました。
内的ワーキングモデルとは、いわゆるネガティブな思想を指し、
被虐待的な養育環境で育ってきた子どもがしばしばもつとされます。
そして、これを媒介として、他者とかかわっていくことが、
結果的には、加害・被害関係の連鎖の中に巻き込まれていくことに
つながっていくと述べています。
つまり、親や保護者からの教育によって、
子どもの性格や思想は決まってしまうものだということが証明できるでしょう。
それは、実際に実践報告のなかでも指摘することができ、
いかに矯正教育において、子どもが更生したとしても、
戻った親の世界が被虐待的でひどい場合には、
また凶悪事件を起こす可能性が高い。
そのため、子どもを更生させるだけでなく、親や保護者への教育や、
それがどうしようもない場合は、全く違う世界へ促すことができるシステムを
考えていく必要があるでしょう。
以下の会は、すべて、自分がこれから書こうとしている論文や投稿に
非常に参考となるものだったので、ここではレポートせず、
今後の楽しみにしようと思います。
こうして、自分を追い詰めるわけです(笑)
全体会
社会的に排除された若者の自立と生活指導
自由研究発表Ⅰ
高校生への自立への学びと相互支援関係の形成
自由研究発表Ⅵ
教育困難校における学級集団形成の分析
課題研究C
いじめ・暴力と生活指導
夏休みの学会めぐりもこれが最後。
去年も参加した学会ですが、そのときは恩師についてまわったという感じだったので、
今回は独り身でどれだけ学べるかという楽しみを持って臨みました。
独り身ではありましたが、
比較的、リラックスして臨めたかなと思います。
課題研究A
人権侵害における加害と被害
日本生活指導学会は、矯正教育(いわゆる少年院での教育)に対する実践報告発表を、
毎年行っている数少ない学会です。
実例報告は少ないものの、今の子どもたちの心の歪みが顕著に現れている
矯正教育の現場の中での報告は、非常に勉強になります。
報告された先生は昨年も報告されていましたが、
前にも述べているように、昨年はついていくだけという感じだったので、
今年は自分のものにできるように気合を入れて報告を聴いていました。
今回は、内的ワーキングモデルと被害・加害関係の連鎖について、
深く報告と議論が展開されました。
内的ワーキングモデルとは、いわゆるネガティブな思想を指し、
被虐待的な養育環境で育ってきた子どもがしばしばもつとされます。
そして、これを媒介として、他者とかかわっていくことが、
結果的には、加害・被害関係の連鎖の中に巻き込まれていくことに
つながっていくと述べています。
つまり、親や保護者からの教育によって、
子どもの性格や思想は決まってしまうものだということが証明できるでしょう。
それは、実際に実践報告のなかでも指摘することができ、
いかに矯正教育において、子どもが更生したとしても、
戻った親の世界が被虐待的でひどい場合には、
また凶悪事件を起こす可能性が高い。
そのため、子どもを更生させるだけでなく、親や保護者への教育や、
それがどうしようもない場合は、全く違う世界へ促すことができるシステムを
考えていく必要があるでしょう。
以下の会は、すべて、自分がこれから書こうとしている論文や投稿に
非常に参考となるものだったので、ここではレポートせず、
今後の楽しみにしようと思います。
こうして、自分を追い詰めるわけです(笑)
全体会
社会的に排除された若者の自立と生活指導
自由研究発表Ⅰ
高校生への自立への学びと相互支援関係の形成
自由研究発表Ⅵ
教育困難校における学級集団形成の分析
課題研究C
いじめ・暴力と生活指導
2007年10月02日
沖縄県のとあるPTA連合会会議
9月27日(木)夜
この町の中学2年生の学級は、今非常に荒れた学級となっていて、
学校現場および保護者のみなさんは頭を悩ましています。
そこで、なんとかその状況から打破したいと、恩師に講演依頼が来て、
恩師からぜひお前にもいろいろとしゃべってほしいとお願いされ、出向きました。
今回は、そのPTAのみなさん20人ほどが集まって(先生はなし)
3時間の比較的長丁場の議論でしたが、みなさん熱心に聴いておられてました。
この学級の「荒れ」というは、
定義化されている授業中に寝たり、立ち歩くといったことはもちろん、
いじめ、教師に対する暴力があるそうです。
そして、生徒と生徒、生徒と教師の人間関係が成立していない状況で、
教師は、生徒の荒れにもう対処しきれないと、
見放している状態にあるそうです。
PTA側としては、その教師たちに当然のことながら、
大きな不満を持っており、なんとか意識改革と荒れた学級の修復、
そして、子どもたちに楽しい中学生活を送らせたいという願いがあり、
多くの教育実践および提言をしてきた恩師に救いの手を求めてきたわけです。
そもそも、荒れる原因は
1.学ぶ意味を見出せない
2.授業がつまらない
3.興味自体が沸かない
4.周りの影響に振り回されてしまっている
5.先生が恐くない
6.子どもたちの民主性がなくなっている
などが挙げられるでしょう。
そういった面を踏まえると、
教師のみなさんの力量の前に、彼らの同僚性のなさを感じました。
今の教師関係の中では、
先生1人ひとりが協同して、クラス単位ではなく、学年の先生全員が一体となって、
生徒たちに学ぶ権利を保障させる機会を作っていくことが求められます。
こういった同僚性が深くあれば、荒れに直面したとしても、協同しあって対処できるというメリットがあります。
しかし、なかなか教育現場を改革していくには相当な時間と労力がかかります。
加えて、どうしてもPTA側は恩師の提言をもっと教師側にも訴えてほしいと、
何度何度もお願いしています。
いくら影響力のある人からの提言でも、
「他者」からの提言では、結局堂々巡りになってしまい、キリがなくなってしまいます。
私は、そういったことを鑑みて、もっとPTAが活発的に動き、提言し、
教師と生徒の世界をダイナミックに変えるきっかけを生み出していくことが必要だと指摘しました。
例えば、PTA主催で学校イベントを企画したり、PTA通信を作成したり、
PTAと教師そして生徒の3者が集まって討議するなどといった、
積極的な動きを見せることが、現場を変える要素となるひとつではないでしょうか。
いずれにせよ、他者に依存せず、主体的に物事を考え、提言していくことが、
何かを変えていくことにつながっていくのですから。
勢いはとてもあるこのPTA連合会。今後の動きに期待したいと思います。
この町の中学2年生の学級は、今非常に荒れた学級となっていて、
学校現場および保護者のみなさんは頭を悩ましています。
そこで、なんとかその状況から打破したいと、恩師に講演依頼が来て、
恩師からぜひお前にもいろいろとしゃべってほしいとお願いされ、出向きました。
今回は、そのPTAのみなさん20人ほどが集まって(先生はなし)
3時間の比較的長丁場の議論でしたが、みなさん熱心に聴いておられてました。
この学級の「荒れ」というは、
定義化されている授業中に寝たり、立ち歩くといったことはもちろん、
いじめ、教師に対する暴力があるそうです。
そして、生徒と生徒、生徒と教師の人間関係が成立していない状況で、
教師は、生徒の荒れにもう対処しきれないと、
見放している状態にあるそうです。
PTA側としては、その教師たちに当然のことながら、
大きな不満を持っており、なんとか意識改革と荒れた学級の修復、
そして、子どもたちに楽しい中学生活を送らせたいという願いがあり、
多くの教育実践および提言をしてきた恩師に救いの手を求めてきたわけです。
そもそも、荒れる原因は
1.学ぶ意味を見出せない
2.授業がつまらない
3.興味自体が沸かない
4.周りの影響に振り回されてしまっている
5.先生が恐くない
6.子どもたちの民主性がなくなっている
などが挙げられるでしょう。
そういった面を踏まえると、
教師のみなさんの力量の前に、彼らの同僚性のなさを感じました。
今の教師関係の中では、
先生1人ひとりが協同して、クラス単位ではなく、学年の先生全員が一体となって、
生徒たちに学ぶ権利を保障させる機会を作っていくことが求められます。
こういった同僚性が深くあれば、荒れに直面したとしても、協同しあって対処できるというメリットがあります。
しかし、なかなか教育現場を改革していくには相当な時間と労力がかかります。
加えて、どうしてもPTA側は恩師の提言をもっと教師側にも訴えてほしいと、
何度何度もお願いしています。
いくら影響力のある人からの提言でも、
「他者」からの提言では、結局堂々巡りになってしまい、キリがなくなってしまいます。
私は、そういったことを鑑みて、もっとPTAが活発的に動き、提言し、
教師と生徒の世界をダイナミックに変えるきっかけを生み出していくことが必要だと指摘しました。
例えば、PTA主催で学校イベントを企画したり、PTA通信を作成したり、
PTAと教師そして生徒の3者が集まって討議するなどといった、
積極的な動きを見せることが、現場を変える要素となるひとつではないでしょうか。
いずれにせよ、他者に依存せず、主体的に物事を考え、提言していくことが、
何かを変えていくことにつながっていくのですから。
勢いはとてもあるこのPTA連合会。今後の動きに期待したいと思います。
2007年10月02日
第229回沖縄教育科学研究会
9月28日(金)
テキストと今回の範囲
田村理著
国家は僕らをまもらない~愛と自由の憲法論~
第5章 「こぐま園」という集団―個人主義と集団の関係
第6章 くだらぬ民主主義が必要なわけ―「投票」と立憲主義~
すでにこのテキストに入ってから3回目。
ブログを書き始めてから、教科研レポも初めてなので、まずは、このテキストの大まかな内容を転記します。
憲法は、国民をまもってくれる「頼れる見方」で、国民はみんなが従うべき重要なルールである…。
僕らはこう考えがちだけど、答えはNO!である。
憲法とは、国家=権力に余計なことをさせないための規範である。
人権は国家=権力に余計なことをさせないことでまもられる。
そのためには、国民は自立した個人であることが求められる。
改憲勢力は、この憲法の根幹を大きく変えようとしているのだ。
問題は9条だけではない。みずみずしい筆致で描く新しい憲法論。
憲法本はとっつきにくいというイメージを払拭するための本なわけですが、
それだけになかなかわかりやすく、憲法に対する理解も深まるのではないでしょうか。
第5章は、個人主義と集団の関係を、
日本国憲法第21条で明記されている「集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」と
第13条の「個人の尊重」を踏まえて、
心臓病の子どもの集いである「こぐま園」の取り組みから、考えるものでした。
「こぐま園」について軽く説明すると・・・
できる限り自立したいと望む障害児とその親が、自律的に組織し、運営してきた集団。
そもそも、本来ならば公的機関が担うべきである障害児教育をすべての危険をも受け入れつつ、30年間負い続けてきている。
そしてその甲斐あって行政を動かし、また他の集団と連携することもでき、一定の成果を挙げている。
というふうに、障害はありえど、精神面や肉体面においてできるだけ自立をサポートしようという世界ですね。
で、そんな「こぐま園」から個人主義と集団の関係を捉え、3つの論点から議論が展開されました。
ちょっと飛ばし飛ばしになって、なんでこの論点に?という指摘もありそうですがご容赦を。。。
論点1
筆者は「個人主義は何でも自分でできる『自立』した個人を想定する」と述べていますが、本当にそうでしょうか?
そうだとしたら『自立』できない障害者などの『弱者切り捨て』を導くのではないでしょうか?
ここでは、障害者自立支援法についての議論から始まりました。
この法が成立して以来、個=集団=権力の関係が、強いいわゆる経済力のある人間にしか与えられていない現実があり、
精神的自立が確立していたとしても、経済的自立が達成されていない場合、社会から切り捨ての対象となってしまっています。
(それは障害者だけじゃなくなってきてもいますが。。。)
そのため、もっと障害者が自尊できる社会環境と権利保障を考え、
公としての保障を確立させていかないと、益々切り捨てや格差が広がってしまうことでしょう。
論点2
「もし万が一のことがあったら」どう不安を抱きながらも責任を担いつつ何かを成し遂げた経験ってないですか?
また逆にあきらめてしまったことってないですか?それはなぜでしょうか?
当然のごとく、経験談が主だったのですが、
こういうシチュエーションになった場合、
重要なのは、ディスクロージャーできるクリーンな状況を常にしておくことによって、
何か問題が発生したときに、相手から訴えられない事が大事だという結論になりました。
言葉は悪いですが、アリバイ作りをしてからでないと、責任のある仕事には入ってはいけないということですね。
論点3
自分のまわりの必要も感じない集団ってないですか?なぜそう思うのでしょうか?
また、「自立」した自由な個人のために必要な集団ってあなたにとってなんでしょうか?
どうしてその集団が必要なんでしょうか?その集団はいつか社会を変える力になるのでしょうか?
ここは、残念ながら時間がなく議論ができなかったのですが、
私としては、1つの集団でも、時と場合によって、それは変わると考えています。
遊んだりバカやって楽しく騒ぐ集団も良いですが、それプラス学びや社会貢献できる世界も持てると、
よりグローバルな感覚が生まれてくるでしょう。
第6章は「投票」と立憲主義について、
第15条の「公務員選定・罷免権、公務員の性質、普通選挙・秘密投票の保障」を踏まえて考えるものでした。
ここでは、論点と解説だけ書いておきます。
論点4
「今やメディア戦略は選挙運動で最も重要な要素」と筆者は述べていますが、
メディアがあなたやまわりの人々の思考判断にどのような影響を与えると思いますか?
また、真に「自立」して、自由な判断で投票に臨む力を児童生徒に身につけさせることには、
学校教育で何が必要でしょうか?
論点5
権力の決めた「皆」なるものに服従することの何が悪いのでしょうか。
権力が求める人間になるのが楽に生きられるのではないでしょうか。
関連する論点なので、同時に書きます。
どうしても、今日、メディアシンドロームになっている日本社会において、
特に政治に関しては、エンターテイメント化されており、当事者制が薄くなっている現状にあります。
そのため、憲法改正問題、教科書検定問題、インド洋給油支援などなど、
実際に何が問題で、何が正しくて、何が間違っているのかということが理解できず、
ただ、マスコミの扇動によって、その価値を見出している国民が多すぎてしまっているのです。
この背景には、何にもしなくても多数の情報が入ってくる利便性がデメリットとして挙げられるでしょう。
しかし、残念ながら、政治決定をした概念が、
民主主義国家であるにもかかわらずファシズム的要素を孕んだものとなってきており、
国民一人ひとりが、自分でこういった問題を判断しなければいけない時代を迎えているのです。
そのため、あらゆる角度に目をむけ、かつ批判的にとらえる視点が必要不可欠です。
それは、学校教育においても同じことがいえ、政治教育による主体性の形成が、
真に自立できる子どもたちを育む重要なファクターになってくるでしょう。
てなわけで、ざっと書いてみましたが。
まだ、7章8章終章と、次回も続くわけですが、
要は、本のタイトル通り、今の国家のままではぼくらは守ってもらえません。
それを改善していくためには、最初は小さくてもいいから、
問題提起をし、声を出していかねばなりません。
さすれば、今回の県民大会のように、県全体を動かし、国をも動かすことが時としてできるのです。
それにはまず、自分で動いていく必要があるのですが。
テキストと今回の範囲
田村理著
国家は僕らをまもらない~愛と自由の憲法論~
第5章 「こぐま園」という集団―個人主義と集団の関係
第6章 くだらぬ民主主義が必要なわけ―「投票」と立憲主義~
すでにこのテキストに入ってから3回目。
ブログを書き始めてから、教科研レポも初めてなので、まずは、このテキストの大まかな内容を転記します。
憲法は、国民をまもってくれる「頼れる見方」で、国民はみんなが従うべき重要なルールである…。
僕らはこう考えがちだけど、答えはNO!である。
憲法とは、国家=権力に余計なことをさせないための規範である。
人権は国家=権力に余計なことをさせないことでまもられる。
そのためには、国民は自立した個人であることが求められる。
改憲勢力は、この憲法の根幹を大きく変えようとしているのだ。
問題は9条だけではない。みずみずしい筆致で描く新しい憲法論。
憲法本はとっつきにくいというイメージを払拭するための本なわけですが、
それだけになかなかわかりやすく、憲法に対する理解も深まるのではないでしょうか。
第5章は、個人主義と集団の関係を、
日本国憲法第21条で明記されている「集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」と
第13条の「個人の尊重」を踏まえて、
心臓病の子どもの集いである「こぐま園」の取り組みから、考えるものでした。
「こぐま園」について軽く説明すると・・・
できる限り自立したいと望む障害児とその親が、自律的に組織し、運営してきた集団。
そもそも、本来ならば公的機関が担うべきである障害児教育をすべての危険をも受け入れつつ、30年間負い続けてきている。
そしてその甲斐あって行政を動かし、また他の集団と連携することもでき、一定の成果を挙げている。
というふうに、障害はありえど、精神面や肉体面においてできるだけ自立をサポートしようという世界ですね。
で、そんな「こぐま園」から個人主義と集団の関係を捉え、3つの論点から議論が展開されました。
ちょっと飛ばし飛ばしになって、なんでこの論点に?という指摘もありそうですがご容赦を。。。
論点1
筆者は「個人主義は何でも自分でできる『自立』した個人を想定する」と述べていますが、本当にそうでしょうか?
そうだとしたら『自立』できない障害者などの『弱者切り捨て』を導くのではないでしょうか?
ここでは、障害者自立支援法についての議論から始まりました。
この法が成立して以来、個=集団=権力の関係が、強いいわゆる経済力のある人間にしか与えられていない現実があり、
精神的自立が確立していたとしても、経済的自立が達成されていない場合、社会から切り捨ての対象となってしまっています。
(それは障害者だけじゃなくなってきてもいますが。。。)
そのため、もっと障害者が自尊できる社会環境と権利保障を考え、
公としての保障を確立させていかないと、益々切り捨てや格差が広がってしまうことでしょう。
論点2
「もし万が一のことがあったら」どう不安を抱きながらも責任を担いつつ何かを成し遂げた経験ってないですか?
また逆にあきらめてしまったことってないですか?それはなぜでしょうか?
当然のごとく、経験談が主だったのですが、
こういうシチュエーションになった場合、
重要なのは、ディスクロージャーできるクリーンな状況を常にしておくことによって、
何か問題が発生したときに、相手から訴えられない事が大事だという結論になりました。
言葉は悪いですが、アリバイ作りをしてからでないと、責任のある仕事には入ってはいけないということですね。
論点3
自分のまわりの必要も感じない集団ってないですか?なぜそう思うのでしょうか?
また、「自立」した自由な個人のために必要な集団ってあなたにとってなんでしょうか?
どうしてその集団が必要なんでしょうか?その集団はいつか社会を変える力になるのでしょうか?
ここは、残念ながら時間がなく議論ができなかったのですが、
私としては、1つの集団でも、時と場合によって、それは変わると考えています。
遊んだりバカやって楽しく騒ぐ集団も良いですが、それプラス学びや社会貢献できる世界も持てると、
よりグローバルな感覚が生まれてくるでしょう。
第6章は「投票」と立憲主義について、
第15条の「公務員選定・罷免権、公務員の性質、普通選挙・秘密投票の保障」を踏まえて考えるものでした。
ここでは、論点と解説だけ書いておきます。
論点4
「今やメディア戦略は選挙運動で最も重要な要素」と筆者は述べていますが、
メディアがあなたやまわりの人々の思考判断にどのような影響を与えると思いますか?
また、真に「自立」して、自由な判断で投票に臨む力を児童生徒に身につけさせることには、
学校教育で何が必要でしょうか?
論点5
権力の決めた「皆」なるものに服従することの何が悪いのでしょうか。
権力が求める人間になるのが楽に生きられるのではないでしょうか。
関連する論点なので、同時に書きます。
どうしても、今日、メディアシンドロームになっている日本社会において、
特に政治に関しては、エンターテイメント化されており、当事者制が薄くなっている現状にあります。
そのため、憲法改正問題、教科書検定問題、インド洋給油支援などなど、
実際に何が問題で、何が正しくて、何が間違っているのかということが理解できず、
ただ、マスコミの扇動によって、その価値を見出している国民が多すぎてしまっているのです。
この背景には、何にもしなくても多数の情報が入ってくる利便性がデメリットとして挙げられるでしょう。
しかし、残念ながら、政治決定をした概念が、
民主主義国家であるにもかかわらずファシズム的要素を孕んだものとなってきており、
国民一人ひとりが、自分でこういった問題を判断しなければいけない時代を迎えているのです。
そのため、あらゆる角度に目をむけ、かつ批判的にとらえる視点が必要不可欠です。
それは、学校教育においても同じことがいえ、政治教育による主体性の形成が、
真に自立できる子どもたちを育む重要なファクターになってくるでしょう。
てなわけで、ざっと書いてみましたが。
まだ、7章8章終章と、次回も続くわけですが、
要は、本のタイトル通り、今の国家のままではぼくらは守ってもらえません。
それを改善していくためには、最初は小さくてもいいから、
問題提起をし、声を出していかねばなりません。
さすれば、今回の県民大会のように、県全体を動かし、国をも動かすことが時としてできるのです。
それにはまず、自分で動いていく必要があるのですが。
2007年10月02日
第66回日本教育学会 in 東京・慶應義塾大学
8月29日(水)~30日(木)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsse4/
http://jera66.org/
今年の夏はこの日本教育学会に参加することが一番の目的でした。
もちろん、これまで素晴らしい先生方に出会い、
自分の中でものすごいエネルギーとなって、ここまできましたが、
改めて、名実ともに有名な全国の学者が集まるこの学会で、
果たしてその先生方はどれほどのものがあるのか?
それをこの眼で実際に見て、触れ、感じ取ることで、
また新しい世界や深い考えが自分の中に生まれると感じていました。
実際に、発表、レセプション、その他での多くの方々との対話は、
自分にとって、本当にちからになりました。
以下、参加した報告会および全体会。
一般研究発表Ⅰ
いじめ問題への教育的対応
一番最初の会は自分の専門分野ともいえる「いじめ問題」であったため、
緊張しつつも、参加しやすい会でした。
中学教師だった経験から、カウンセラーの視点から、国際的動向という視点から
非常に洞察的な視点からそれぞれ提言をされていて、
多くのことを学びとれたと思います。
詳しくは、10月末までに書き上げる予定の論文で、
自分の考えを述べますので、もう少しお待ちください。
公開シンポジウムⅠ
教育政策と教育学研究との対話―教育学は政策学たりうるのか―
趣旨を転機しておきます。
教育学はその学問的性格から、絶えず「現実」との接点が問われ、「現実」に引き戻されることを宿命づけられている。
たとえば教育哲学研究であれば、その研究者が対象としての思想・学説の内容を
いかに十全に把握し得たとしても、それだけで完結するわけではない。
教育史研究であれば、その仕事は歴史資料の精密な解読だけに終わるものではない。
同様の事情は教育社会学、教育心理学などあらゆる教育関係諸学にも指摘できることであろう。
その意味で、教育学研究の世界において得られた知見は、
それが現実の教育上の諸問題とどのように関わるのか、という問いから解放されることはない。
他方、多少ひいき目に見れば、教育学はこれまで、そうした「現実」との緊密で、
建設的な関係構築のためにそれなりの努力を積み重ね、
またそれなりの貢献を果たしてきたという評価もあり得るだろう。
とりわけ教授理論やカリキュラム研究、あるいは実際の教員養成など学校教育の基盤を形づくる分野において、
重要な成果を生み出してきたと指摘することは許されよう。
しかし、そうした評価があるにしても、教育学研究が対峙すべき「現実」の中の極めて重要な一部門としての
国の教育政策立案過程に着目するならば、教育学研究はどのような貢献をなし得てきた、と言えるだろうか。
今後、教育学が接点を確保すべき「現実」として教育政策の分野に重大な関心を傾けようとするならば、
それとどのような関係を構築していくべきなのか。
教育学研究者間のいわば内部者の眼のみで教育政策のありようを吟味することには、
もはや限界が見えているのではないだろうか。
このシンポジウムでは、教育政策の策定者や教育行政の実施者の側が教育学研究をどう評価し、
それに何を期待しているのか、また教育学の隣接領域からは教育学研究にどのようなことが求められているのか、
こうしたことに関わってあえて私たちの学会の外部の方々の注文を議論に取り入れながら、
教育学の政策学としての可能性と課題を探ってゆきたい。
そうそうたるメンバーによるシンポジウムで、なかなか緊張しました。
難しいことをたくさん述べていますが、
このシンポジウムのキーは、教育学=教育政策=教育現場が果たして達成されているのかということ。
残念ながら、教育学=概略的なものが多い、教育政策=政治的介入的要素が強いという特徴を鑑みると、
教育現場に対して、正しいアプローチができているかというと、すべてが違うとは言いませんが、
あながち疑問が発生してくるのは当然のことでしょう。
そのため、早急にすべての組織において、この3つの立場がリンクしあうようにならなければなりません。
その上で、子どもたちのための教育政策を考えていく必要性があるでしょう。
一般研究発表Ⅱ
市民性教育の課題②
市民性教育については深めていくつもりなので
ちんぷんかんぷんな予感はしましたが、
私が憧れているところの院生のレポートは
どんなものなのかという少しミーハー的なものもあって、参加を決めました。
アクティブ・シティズンシップとは、
スウェーデン・モデルと呼ばれる福祉国家体制が1980年代に欧米諸国へ崩壊したことで、
いわゆる小さな政府体制への転換を呼びかける際に用いられた概念のことを指します。
私は、思想的なものはちんぷんかんぷんなので、
勝手に日本の場合はどうだろう?と考えていました。
実際、日本でも徐々にアクティブ・シティズンシップが求められているのは、
最近の政策を見れば明らかでしょう。
しかし、主体性が乏しく、依存性が強い、現代の日本の若者を見ると、
なんて矛盾しているのかと考えてしまいます。
しかし、唯一、若者がアクティブに持論を唱えあっているところがあります。
それはインターネット。
2chや裏サイトなどといったインターネット上での討議空間では、
若者を中心にさまざまなユーザーが意見をぶつけ合っています。
これを利用しない手はないでしょう。
私たちにとって、インターネットはもはや当たり前になった時代でもあるわけですから、
それをただホビーや嘲笑の場とするだけではなく、
政府や国民全体が社会参画や問題提起ができるツールのひとつとして、
改めて見つめなおしていく必要性があります。
さすれば、多少は日本社会も本当のアクティブ・シティズンシップが成立していくのではないでしょうか。
特別課題研究
プロフェッションとしての教員養成に関する総合的研究
こちらも趣旨を転機しておきます。
教職大学院の動きが本格的になってきましたが、
教職のプロフェッショナリズムをどう構築するかの議論が共有されないままに、
教員養成系大学・学部の再編がらみで展開している傾向がみうけられます。
本特別研究は、教職のプロフェッショナリズムをさまざまな観点から掘り下げることを目的として設置されました。
昨年度は、「教師教育の高度化と専門職化をめぐる情勢と課題」と題するテーマで
戦後の教員養成が内包する基本的な矛盾とその解決をはかりながら高度化する課題について、
また、「教員養成の高度化とカリキュラム開発」というテーマで
アメリカにおける教員の研修制度と免許更新制からみた日本の政策的な観点の問題について、
指摘がおこなわれました。
今年度は、それを基礎に、プロフェッションとしての教師がどのような教養と
専門的な中身をもつことが要請されるかについて以下のような報告を提供する予定です。
報告者の数を少なくし、討論に十分な時間をかけたい設計としております。
多数のご参加を期待しております。
教育再生会議で、唯一、現在の教育改革に異を唱す先生と
子どもの発達の視点に立つ教育改革や教員養成制度の確立が喫緊の課題と先生という、
今の荒廃している教育現場に一石を投じようとしているお2人の発表。
非常に興味深いものがありました。
ただ、教員養成という概念からだったので、少し定義的になってしまったのが残念でした。
もう少し違うテーマから切り込んだほうが議論が盛り上がり、勉強になったんじゃないかとは思いました。
しかし、私自身はお2人とお話ができ、今後の研究に熱が入りそうです。
ラウンドテーブル
戦後教育研究の「失敗」について
こちらも趣旨を転機しておきます。
教育学を中心とした専門的な教育研究は、
戦後の対立図式を色濃く反映するイデオロギー的な磁場のなかにあったといわれる。
他方、実証研究の軽視など、本来果たすべき役割を十分に果たし得なかったという批判もある。
こうした点をふまえ、私たちは日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェクト
〔日本の教育システム:教育研究の「失敗」サブグループ〕において、
教育を専門的に対象とする研究自体を対象化し、何が「失敗」とみなされ、
どのような批判や反批判、学問的な展開があったのかに関する議論を積み重ねてきた。
本ラウンドテーブルでは、このような私たちの研究成果を報告しながら、
戦後教育学についての議論を深めていければと考えている。
自分的には、実際に「失敗」の箇所を報告し、説明してもらえるのだと思っていたのですがが、
この研究においての過程がほとんどで、興味深いところはたくさんあったものの、少し残念でした。
著書が出来上がったら、読み込んで勉強したいと思います。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsse4/
http://jera66.org/
今年の夏はこの日本教育学会に参加することが一番の目的でした。
もちろん、これまで素晴らしい先生方に出会い、
自分の中でものすごいエネルギーとなって、ここまできましたが、
改めて、名実ともに有名な全国の学者が集まるこの学会で、
果たしてその先生方はどれほどのものがあるのか?
それをこの眼で実際に見て、触れ、感じ取ることで、
また新しい世界や深い考えが自分の中に生まれると感じていました。
実際に、発表、レセプション、その他での多くの方々との対話は、
自分にとって、本当にちからになりました。
以下、参加した報告会および全体会。
一般研究発表Ⅰ
いじめ問題への教育的対応
一番最初の会は自分の専門分野ともいえる「いじめ問題」であったため、
緊張しつつも、参加しやすい会でした。
中学教師だった経験から、カウンセラーの視点から、国際的動向という視点から
非常に洞察的な視点からそれぞれ提言をされていて、
多くのことを学びとれたと思います。
詳しくは、10月末までに書き上げる予定の論文で、
自分の考えを述べますので、もう少しお待ちください。
公開シンポジウムⅠ
教育政策と教育学研究との対話―教育学は政策学たりうるのか―
趣旨を転機しておきます。
教育学はその学問的性格から、絶えず「現実」との接点が問われ、「現実」に引き戻されることを宿命づけられている。
たとえば教育哲学研究であれば、その研究者が対象としての思想・学説の内容を
いかに十全に把握し得たとしても、それだけで完結するわけではない。
教育史研究であれば、その仕事は歴史資料の精密な解読だけに終わるものではない。
同様の事情は教育社会学、教育心理学などあらゆる教育関係諸学にも指摘できることであろう。
その意味で、教育学研究の世界において得られた知見は、
それが現実の教育上の諸問題とどのように関わるのか、という問いから解放されることはない。
他方、多少ひいき目に見れば、教育学はこれまで、そうした「現実」との緊密で、
建設的な関係構築のためにそれなりの努力を積み重ね、
またそれなりの貢献を果たしてきたという評価もあり得るだろう。
とりわけ教授理論やカリキュラム研究、あるいは実際の教員養成など学校教育の基盤を形づくる分野において、
重要な成果を生み出してきたと指摘することは許されよう。
しかし、そうした評価があるにしても、教育学研究が対峙すべき「現実」の中の極めて重要な一部門としての
国の教育政策立案過程に着目するならば、教育学研究はどのような貢献をなし得てきた、と言えるだろうか。
今後、教育学が接点を確保すべき「現実」として教育政策の分野に重大な関心を傾けようとするならば、
それとどのような関係を構築していくべきなのか。
教育学研究者間のいわば内部者の眼のみで教育政策のありようを吟味することには、
もはや限界が見えているのではないだろうか。
このシンポジウムでは、教育政策の策定者や教育行政の実施者の側が教育学研究をどう評価し、
それに何を期待しているのか、また教育学の隣接領域からは教育学研究にどのようなことが求められているのか、
こうしたことに関わってあえて私たちの学会の外部の方々の注文を議論に取り入れながら、
教育学の政策学としての可能性と課題を探ってゆきたい。
そうそうたるメンバーによるシンポジウムで、なかなか緊張しました。
難しいことをたくさん述べていますが、
このシンポジウムのキーは、教育学=教育政策=教育現場が果たして達成されているのかということ。
残念ながら、教育学=概略的なものが多い、教育政策=政治的介入的要素が強いという特徴を鑑みると、
教育現場に対して、正しいアプローチができているかというと、すべてが違うとは言いませんが、
あながち疑問が発生してくるのは当然のことでしょう。
そのため、早急にすべての組織において、この3つの立場がリンクしあうようにならなければなりません。
その上で、子どもたちのための教育政策を考えていく必要性があるでしょう。
一般研究発表Ⅱ
市民性教育の課題②
市民性教育については深めていくつもりなので
ちんぷんかんぷんな予感はしましたが、
私が憧れているところの院生のレポートは
どんなものなのかという少しミーハー的なものもあって、参加を決めました。
アクティブ・シティズンシップとは、
スウェーデン・モデルと呼ばれる福祉国家体制が1980年代に欧米諸国へ崩壊したことで、
いわゆる小さな政府体制への転換を呼びかける際に用いられた概念のことを指します。
私は、思想的なものはちんぷんかんぷんなので、
勝手に日本の場合はどうだろう?と考えていました。
実際、日本でも徐々にアクティブ・シティズンシップが求められているのは、
最近の政策を見れば明らかでしょう。
しかし、主体性が乏しく、依存性が強い、現代の日本の若者を見ると、
なんて矛盾しているのかと考えてしまいます。
しかし、唯一、若者がアクティブに持論を唱えあっているところがあります。
それはインターネット。
2chや裏サイトなどといったインターネット上での討議空間では、
若者を中心にさまざまなユーザーが意見をぶつけ合っています。
これを利用しない手はないでしょう。
私たちにとって、インターネットはもはや当たり前になった時代でもあるわけですから、
それをただホビーや嘲笑の場とするだけではなく、
政府や国民全体が社会参画や問題提起ができるツールのひとつとして、
改めて見つめなおしていく必要性があります。
さすれば、多少は日本社会も本当のアクティブ・シティズンシップが成立していくのではないでしょうか。
特別課題研究
プロフェッションとしての教員養成に関する総合的研究
こちらも趣旨を転機しておきます。
教職大学院の動きが本格的になってきましたが、
教職のプロフェッショナリズムをどう構築するかの議論が共有されないままに、
教員養成系大学・学部の再編がらみで展開している傾向がみうけられます。
本特別研究は、教職のプロフェッショナリズムをさまざまな観点から掘り下げることを目的として設置されました。
昨年度は、「教師教育の高度化と専門職化をめぐる情勢と課題」と題するテーマで
戦後の教員養成が内包する基本的な矛盾とその解決をはかりながら高度化する課題について、
また、「教員養成の高度化とカリキュラム開発」というテーマで
アメリカにおける教員の研修制度と免許更新制からみた日本の政策的な観点の問題について、
指摘がおこなわれました。
今年度は、それを基礎に、プロフェッションとしての教師がどのような教養と
専門的な中身をもつことが要請されるかについて以下のような報告を提供する予定です。
報告者の数を少なくし、討論に十分な時間をかけたい設計としております。
多数のご参加を期待しております。
教育再生会議で、唯一、現在の教育改革に異を唱す先生と
子どもの発達の視点に立つ教育改革や教員養成制度の確立が喫緊の課題と先生という、
今の荒廃している教育現場に一石を投じようとしているお2人の発表。
非常に興味深いものがありました。
ただ、教員養成という概念からだったので、少し定義的になってしまったのが残念でした。
もう少し違うテーマから切り込んだほうが議論が盛り上がり、勉強になったんじゃないかとは思いました。
しかし、私自身はお2人とお話ができ、今後の研究に熱が入りそうです。
ラウンドテーブル
戦後教育研究の「失敗」について
こちらも趣旨を転機しておきます。
教育学を中心とした専門的な教育研究は、
戦後の対立図式を色濃く反映するイデオロギー的な磁場のなかにあったといわれる。
他方、実証研究の軽視など、本来果たすべき役割を十分に果たし得なかったという批判もある。
こうした点をふまえ、私たちは日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェクト
〔日本の教育システム:教育研究の「失敗」サブグループ〕において、
教育を専門的に対象とする研究自体を対象化し、何が「失敗」とみなされ、
どのような批判や反批判、学問的な展開があったのかに関する議論を積み重ねてきた。
本ラウンドテーブルでは、このような私たちの研究成果を報告しながら、
戦後教育学についての議論を深めていければと考えている。
自分的には、実際に「失敗」の箇所を報告し、説明してもらえるのだと思っていたのですがが、
この研究においての過程がほとんどで、興味深いところはたくさんあったものの、少し残念でした。
著書が出来上がったら、読み込んで勉強したいと思います。
2007年10月02日
第16回日本特別活動学会 in 埼玉・獨協大学
8月18日(土)~19日(日)
大会テーマ
いま改めて問う 特別活動の存在意義とは何か
-豊かな学校生活の実現を目指して-
http://wwwsoc.nii.ac.jp/tokkatsu/index.html
この夏、とにかくいろんな研究会や学会に参加しようと考えていたので、
ツテが全くないところでも、インターネットで探して、
東京近郊で開催されるものだったら、行ってみようと決意していました。
この日本特別活動学会もその一つ。
大会参加を決めた後、お世話になっている先生が発表するのを聞いて、
多少安心感はありましたが、やはり初めての環境で、若干私の思想と異なりそうな学会。
期待半分、不安半分で臨みました。
しかし、いくつかの実践報告および報告では、
非常に勉強になる部分があり、参加してよかったと思います。
また、多くの先生方に目をかけていただいたことに感謝したい思います。
基調対談
特別活動の原点を問う
-戦後教育における「特別活動」の意義と課題-
主に、戦後教育からの特別活動に関する歴史的概念の発表でした。
そして、現在の特別活動に関しての提言として、おおまかでしたが、
個が輝く集団、形、論述に捉えることだけではなく、
今、学校に求められているものはないかを捉え、
特別活動を考えるべきだと最後は締めています。
シンポジウム
学習指導要領の改訂と特別活動の実践課題
-豊かな学校生活の実現を目指して-
この中で非常に印象的だったのが天野先生の実践報告でした。
いわゆるこころの教育やいのちの教育がままなっていない現状ではありますが、
集団づくりと特別な個の両方にとって、
そういうことに意識を持たせ、
そしてそこから何事に対しても主体的に考えることのできる学級づくりを作ることは
今の学校現場に必要不可欠なことであると序盤で述べています。
また人間関係が脆弱化し、残酷な事件が発生することを鑑みても同様のことが言えるでしょう。
個々の子どもの実存が問われることで・・・
①どんな仲間がいるか知る
②時には知らなくてはいけないことを感じる
教師の実存が問われることで・・・
①涙を流した生徒へのかかわり方を考える
②民主的に生徒をコーディネートできる立場になる
と、いのちの教育をすることにおいての重要性および注意点も述べていました。
時間がそこまでなかったので、
スライドでの授業風景はざっとしか見ることができませんでしたが、
黒板だけでなく、資料や用意した画用紙などで、
主体的ではなく、子どもたち一人ひとりがいのちについて考える授業内容は、
これはどこでもするべきだ!と感じました。
この実践報告を行った先生はこうしたいのちの教育の特別活動だけでなく、
自らの授業についても、同僚や校長に有無を言わさぬ立派な授業を行うそうです。
そのため、特異な授業をしても、なにも言われることはないだとか。
非常に多忙を極めている教師世界の中で、
教科教育も特別活動も妥協することなく、両方とも極める姿勢。
子どもたちを本当に愛しているのだなぁと感銘を受けました。
第二分科会 いじめ問題への対応
ここでは、薬物教育についての報告が非常に印象的でした。
まず、薬物教育を学校で行うとなると、講演をするとなると、
予算の問題で年に1回できるかできないかという状態であり、
きちんと薬物教育をしていくには、
特別活動と学校活動をうまくリンクさせなければいけないと述べています。
そもそも薬はどんなのときに飲むのか?
それは、毒をもって毒を制すというように、どこか悪いから飲むものです。
薬物を乱用する子どもたちは、心身的な傷を忘れるために、飲むといいます。
このとき、子どもたちは、自分がしていることに意識はなく、
どんどん中毒へと陥ってしまう可能性も秘めています。
では、どうして解消へと促していくのか?
報告内では、話し合い活動での対処は難しく、
個々を見て、直接指導がベターな対処法だと述べています。
そしてその時、暖かくて幸せな場所をその子に見出してあげることができれば、
最悪な結果にはならないといいます。
できれば、カウンセリングや対処する人に、ある程度の自身の経験があれば、
その子に対する心理状態の背景に共感できる場合が多く、
解決に向かうときがほとんどだそうです。
そのため現場の先生は、子どものときに、ちょいとワルをしていたほうがいいと語っていました。
少し笑ってしまいそうですが、実際に多くの子どもに接するわけですから、
さまざまな経験をして、あらゆるシーンに対処できる能力を持っていなければいけないのは事実。
そういう意味では、今の教員養成システムにも疑問を持つざるを得ないですね。
いずれにせよ、難しい問題も孕んでいます。
課題研究2 豊かな人間関係を育む特別活動の実践課題は何か
いつもお世話になっている先生が参加されていた実践課題。
そもそも、特別活動の意義とは、
子どもたちが主体性を持ち、
将来、積極的に社会参画していくきっかけとなることとしています。
その先生は、子どもが無気力化しているとして、それをいかにして、
引き上げていくかが実践のカギと述べてます。
その中で、政治教育の重要性を指摘した上で、
それをもとにして、子どもたちに社会に対する意識や社会参画への視点を
持たす実践を報告なさっていました。
その実践とは、基地問題や教科書検定の集団自決箇所の削除問題に対する活動を、
子どもたちに促し、子どもたち一人ひとりに問題意識を持ってもらい、
独自で模擬投票を行ったり、意見書や嘆願書を市町村議会に提出したりして、
目的達成へと促しています。
しかし、こういった取り組みにおいては、政治的介入がどうしても発生してしまい、
「18歳の市民権」という概念から教育現場だけでなく、
国民全体が問題意識を持つ必要性があるでしょう。
この内容は、フロアからの受けは良く、
やはり、信条や思想(そう捉えていいのかちょっとわかりませんが)にこだわらず、
子どもたちを健やかに育みたいという観点は、誰にでもあるということがわかり、
日本の取り組みも徐々に変化を擁してきているのかなと、
ホッとしているのが、正直の感想です。
今後、どういう影響がこの学会から発信されていくのかを期待したいと思います。
大会テーマ
いま改めて問う 特別活動の存在意義とは何か
-豊かな学校生活の実現を目指して-
http://wwwsoc.nii.ac.jp/tokkatsu/index.html
この夏、とにかくいろんな研究会や学会に参加しようと考えていたので、
ツテが全くないところでも、インターネットで探して、
東京近郊で開催されるものだったら、行ってみようと決意していました。
この日本特別活動学会もその一つ。
大会参加を決めた後、お世話になっている先生が発表するのを聞いて、
多少安心感はありましたが、やはり初めての環境で、若干私の思想と異なりそうな学会。
期待半分、不安半分で臨みました。
しかし、いくつかの実践報告および報告では、
非常に勉強になる部分があり、参加してよかったと思います。
また、多くの先生方に目をかけていただいたことに感謝したい思います。
基調対談
特別活動の原点を問う
-戦後教育における「特別活動」の意義と課題-
主に、戦後教育からの特別活動に関する歴史的概念の発表でした。
そして、現在の特別活動に関しての提言として、おおまかでしたが、
個が輝く集団、形、論述に捉えることだけではなく、
今、学校に求められているものはないかを捉え、
特別活動を考えるべきだと最後は締めています。
シンポジウム
学習指導要領の改訂と特別活動の実践課題
-豊かな学校生活の実現を目指して-
この中で非常に印象的だったのが天野先生の実践報告でした。
いわゆるこころの教育やいのちの教育がままなっていない現状ではありますが、
集団づくりと特別な個の両方にとって、
そういうことに意識を持たせ、
そしてそこから何事に対しても主体的に考えることのできる学級づくりを作ることは
今の学校現場に必要不可欠なことであると序盤で述べています。
また人間関係が脆弱化し、残酷な事件が発生することを鑑みても同様のことが言えるでしょう。
個々の子どもの実存が問われることで・・・
①どんな仲間がいるか知る
②時には知らなくてはいけないことを感じる
教師の実存が問われることで・・・
①涙を流した生徒へのかかわり方を考える
②民主的に生徒をコーディネートできる立場になる
と、いのちの教育をすることにおいての重要性および注意点も述べていました。
時間がそこまでなかったので、
スライドでの授業風景はざっとしか見ることができませんでしたが、
黒板だけでなく、資料や用意した画用紙などで、
主体的ではなく、子どもたち一人ひとりがいのちについて考える授業内容は、
これはどこでもするべきだ!と感じました。
この実践報告を行った先生はこうしたいのちの教育の特別活動だけでなく、
自らの授業についても、同僚や校長に有無を言わさぬ立派な授業を行うそうです。
そのため、特異な授業をしても、なにも言われることはないだとか。
非常に多忙を極めている教師世界の中で、
教科教育も特別活動も妥協することなく、両方とも極める姿勢。
子どもたちを本当に愛しているのだなぁと感銘を受けました。
第二分科会 いじめ問題への対応
ここでは、薬物教育についての報告が非常に印象的でした。
まず、薬物教育を学校で行うとなると、講演をするとなると、
予算の問題で年に1回できるかできないかという状態であり、
きちんと薬物教育をしていくには、
特別活動と学校活動をうまくリンクさせなければいけないと述べています。
そもそも薬はどんなのときに飲むのか?
それは、毒をもって毒を制すというように、どこか悪いから飲むものです。
薬物を乱用する子どもたちは、心身的な傷を忘れるために、飲むといいます。
このとき、子どもたちは、自分がしていることに意識はなく、
どんどん中毒へと陥ってしまう可能性も秘めています。
では、どうして解消へと促していくのか?
報告内では、話し合い活動での対処は難しく、
個々を見て、直接指導がベターな対処法だと述べています。
そしてその時、暖かくて幸せな場所をその子に見出してあげることができれば、
最悪な結果にはならないといいます。
できれば、カウンセリングや対処する人に、ある程度の自身の経験があれば、
その子に対する心理状態の背景に共感できる場合が多く、
解決に向かうときがほとんどだそうです。
そのため現場の先生は、子どものときに、ちょいとワルをしていたほうがいいと語っていました。
少し笑ってしまいそうですが、実際に多くの子どもに接するわけですから、
さまざまな経験をして、あらゆるシーンに対処できる能力を持っていなければいけないのは事実。
そういう意味では、今の教員養成システムにも疑問を持つざるを得ないですね。
いずれにせよ、難しい問題も孕んでいます。
課題研究2 豊かな人間関係を育む特別活動の実践課題は何か
いつもお世話になっている先生が参加されていた実践課題。
そもそも、特別活動の意義とは、
子どもたちが主体性を持ち、
将来、積極的に社会参画していくきっかけとなることとしています。
その先生は、子どもが無気力化しているとして、それをいかにして、
引き上げていくかが実践のカギと述べてます。
その中で、政治教育の重要性を指摘した上で、
それをもとにして、子どもたちに社会に対する意識や社会参画への視点を
持たす実践を報告なさっていました。
その実践とは、基地問題や教科書検定の集団自決箇所の削除問題に対する活動を、
子どもたちに促し、子どもたち一人ひとりに問題意識を持ってもらい、
独自で模擬投票を行ったり、意見書や嘆願書を市町村議会に提出したりして、
目的達成へと促しています。
しかし、こういった取り組みにおいては、政治的介入がどうしても発生してしまい、
「18歳の市民権」という概念から教育現場だけでなく、
国民全体が問題意識を持つ必要性があるでしょう。
この内容は、フロアからの受けは良く、
やはり、信条や思想(そう捉えていいのかちょっとわかりませんが)にこだわらず、
子どもたちを健やかに育みたいという観点は、誰にでもあるということがわかり、
日本の取り組みも徐々に変化を擁してきているのかなと、
ホッとしているのが、正直の感想です。
今後、どういう影響がこの学会から発信されていくのかを期待したいと思います。
2007年09月26日
第45回高生研全国大会 in 熊本3
いよいよ名桜大学も明日から後期が始まります(日にち的にはもう今日ですが)
私はとりあえず大学が主催する論文コンクールに、
「いじめ問題に関する考察①」というタイトルで、
論文投稿することを目標にしています。
MKC(教職サークル)通信づくりやその他やることもたくさんあり、
いろいろと忙しいものの、わくわく感を伴っての後期になりそうです。
さて。前回の引き続き。
今日で高生研大会レポは、まだまだ書きたいことがたくさんありますが、
一区切りをつけたいと思います。
そうしないと夏休みレポが終わらなくなってしまいますから(笑)
分科会1日通し
生徒会指導3年間 ~生徒会顧問の指導性を問い返し~
分科会の紹介文には下記のように、書かれています。
「郊外にある中堅の普通科で『おとなしく素直な子』が多く、
部活も行事も盛んな高校です。
しかし、指導に素直な反面、
自分では考えないこともよくある生徒達が集まっています。
そんな学校の生徒会指導3年間を報告します。
地味な実践ですが、判断力を育てるために何が必要なのか、
教師の指導性を問い返しながらやってきた実践報告です。」
つまり、生徒会活動や学校行事に力をいれている学校ではなく、
いたって「普通」の学校の実践報告であり、
非常に勉強になる分科会でした。
私は、去年も同じ先生の実践の分科会に参加させていただいていたので、
なおさら、その後の取り組みに興味がありました。
レジュメの中で、
自身の高校の生徒が持つ集団の雰囲気についてこう述べています。
・積極的に自分を表現したり、他の生徒と相談をしたりすることができないものが多い。
・教師の指導に対して大変素直なのだが、自分で考えるのをやめてしまう場面も多く見受けられる。
つまりこれを鑑みると、こうした現場に立つ教師としては、
・生徒を尊重し、それこそ討議空間が生まれる雰囲気を作りだすこと。
・生徒と対等に接し、信頼関係を強固にする。
・重要なところでは、原則をしっかりさせる。
・リーダー学習や研修の機会を作り、活性化した学級を作り出すこと(←これは実践されていませんでした。)
・失敗や恥をしたときに、助け舟をすぐに出さず、見守る態度をもつこと。
・どうしようもなくなったら寛容に受け入れ、自発性を促していくこと。
・指導通信(同僚や生徒、保護者などに)は必ず無理をしてでも書くようにすること。
などといった資質や態度が求められることでしょう。
この先生は、ベテランで能力の非常に高い先生ですが、
そういったプライド的なものは全くなく、
良い意味で生徒に対して空気的存在であるため、
生徒との信頼関係がしっかりしており、
かつ普通の子たちが尊重されて成長していっています。
これには、先生の先天性なものもあるのかもしれませんが、
それを踏まえてでも、今の先生は、生徒に対して、
自分を殺しつつ、客観的に一人ひとりを見れる態度を持たなければ、
集団としての学校が成立しないのかなと感じました。
また同時に、若い先生の多くが指導能力不足になっている原因もここで理解できた気がしました。
それについては、後日書きたいと思います。
分科会午前のみ
高校教師は「いじめ」とどう向き合うのか
この報告をされた先生は定時制高校の先生で、いじめ問題に関する実践報告は毎回のようにされています。
今回は、実践報告というよりも学会的な論文からの検討でしたが、
実体験に基づきながら、論理的に書かれたレジュメは非常に勉強になりました。
ただ、時間が3時間しかなかったことで、討論というよりも
フロアが実体験を語ることでいっぱいいっぱいになってしまったのが少し残念でした。
この分科会については、私がこれから書こうとしている論文において、
非常に参考にしている部分があるので、それが完成するまで、
内容引用や意見、レポの詳しいことはもう少しお待ちください。
交流会
私の水俣病50年 ~私の存在を取り戻すたたかい~
緒方正実さん
詳しくはこちら。
http://www.sankei.co.jp/seikatsu/kenko/070315/knk070315000.htm
実際にお話をお聞きして、水俣病のひどさ、緒方さんの大変さ、
そして、本当の弱者に対する日本政府の残酷な姿勢を痛感しました。
交流会②
教室をちょっと楽しくする小ワザ・小ネタ大集合!
なかなか授業に参加してくれない今時の子どもたちをいかに振り向かせるか!
というテーマで、この交流会が企画されたのですが、
どれもこれも、ついつい楽しんでしまいました(笑)
まずは、子どもたちが楽しく遊ぶようにして始めてから
(いわゆるワークショップ的なものから)、
授業に入っていくスタイルをどんどん考えていかねばなりませんね。
私はとりあえず大学が主催する論文コンクールに、
「いじめ問題に関する考察①」というタイトルで、
論文投稿することを目標にしています。
MKC(教職サークル)通信づくりやその他やることもたくさんあり、
いろいろと忙しいものの、わくわく感を伴っての後期になりそうです。
さて。前回の引き続き。
今日で高生研大会レポは、まだまだ書きたいことがたくさんありますが、
一区切りをつけたいと思います。
そうしないと夏休みレポが終わらなくなってしまいますから(笑)
分科会1日通し
生徒会指導3年間 ~生徒会顧問の指導性を問い返し~
分科会の紹介文には下記のように、書かれています。
「郊外にある中堅の普通科で『おとなしく素直な子』が多く、
部活も行事も盛んな高校です。
しかし、指導に素直な反面、
自分では考えないこともよくある生徒達が集まっています。
そんな学校の生徒会指導3年間を報告します。
地味な実践ですが、判断力を育てるために何が必要なのか、
教師の指導性を問い返しながらやってきた実践報告です。」
つまり、生徒会活動や学校行事に力をいれている学校ではなく、
いたって「普通」の学校の実践報告であり、
非常に勉強になる分科会でした。
私は、去年も同じ先生の実践の分科会に参加させていただいていたので、
なおさら、その後の取り組みに興味がありました。
レジュメの中で、
自身の高校の生徒が持つ集団の雰囲気についてこう述べています。
・積極的に自分を表現したり、他の生徒と相談をしたりすることができないものが多い。
・教師の指導に対して大変素直なのだが、自分で考えるのをやめてしまう場面も多く見受けられる。
つまりこれを鑑みると、こうした現場に立つ教師としては、
・生徒を尊重し、それこそ討議空間が生まれる雰囲気を作りだすこと。
・生徒と対等に接し、信頼関係を強固にする。
・重要なところでは、原則をしっかりさせる。
・リーダー学習や研修の機会を作り、活性化した学級を作り出すこと(←これは実践されていませんでした。)
・失敗や恥をしたときに、助け舟をすぐに出さず、見守る態度をもつこと。
・どうしようもなくなったら寛容に受け入れ、自発性を促していくこと。
・指導通信(同僚や生徒、保護者などに)は必ず無理をしてでも書くようにすること。
などといった資質や態度が求められることでしょう。
この先生は、ベテランで能力の非常に高い先生ですが、
そういったプライド的なものは全くなく、
良い意味で生徒に対して空気的存在であるため、
生徒との信頼関係がしっかりしており、
かつ普通の子たちが尊重されて成長していっています。
これには、先生の先天性なものもあるのかもしれませんが、
それを踏まえてでも、今の先生は、生徒に対して、
自分を殺しつつ、客観的に一人ひとりを見れる態度を持たなければ、
集団としての学校が成立しないのかなと感じました。
また同時に、若い先生の多くが指導能力不足になっている原因もここで理解できた気がしました。
それについては、後日書きたいと思います。
分科会午前のみ
高校教師は「いじめ」とどう向き合うのか
この報告をされた先生は定時制高校の先生で、いじめ問題に関する実践報告は毎回のようにされています。
今回は、実践報告というよりも学会的な論文からの検討でしたが、
実体験に基づきながら、論理的に書かれたレジュメは非常に勉強になりました。
ただ、時間が3時間しかなかったことで、討論というよりも
フロアが実体験を語ることでいっぱいいっぱいになってしまったのが少し残念でした。
この分科会については、私がこれから書こうとしている論文において、
非常に参考にしている部分があるので、それが完成するまで、
内容引用や意見、レポの詳しいことはもう少しお待ちください。
交流会
私の水俣病50年 ~私の存在を取り戻すたたかい~
緒方正実さん
詳しくはこちら。
http://www.sankei.co.jp/seikatsu/kenko/070315/knk070315000.htm
実際にお話をお聞きして、水俣病のひどさ、緒方さんの大変さ、
そして、本当の弱者に対する日本政府の残酷な姿勢を痛感しました。
交流会②
教室をちょっと楽しくする小ワザ・小ネタ大集合!
なかなか授業に参加してくれない今時の子どもたちをいかに振り向かせるか!
というテーマで、この交流会が企画されたのですが、
どれもこれも、ついつい楽しんでしまいました(笑)
まずは、子どもたちが楽しく遊ぶようにして始めてから
(いわゆるワークショップ的なものから)、
授業に入っていくスタイルをどんどん考えていかねばなりませんね。
2007年09月23日
第45回高生研全国大会 in 熊本2
前回に引き続き。
高生研全国大会初日、講演が終わった後の全体会をレポートします。
全体会および基調発題
討議空間づくり ~教育と政治の間に~
え~。正直政治教育という概念が未だに理解しきれていないので、
レポートらしいものにはならなそうですが、
私が感じたことを書きたいと思います。
基調の文章のなかで、
「討議空間づくりでは、政治を『複数性の政治』と考える。」
「討議空間づくり実践は、多様化・複雑化しているポストモダン社会の中で、
複数性・異質性に開かれた学校・社会を目指し、
それに付随する問題・課題に取り込む教育政治(政治教育)であり、
その核に『討議空間』を置く実践構想なのである。」
と、定義されています。
つまり、人間関係の構築が難しくなっている現代社会および学校現場に、
いやむしろ人間関係が作られていても、
本音や批判的に対話ができなくなっているなれそめ的な状態を、
強固なものにするためには、討議空間づくりが非常に重要なのです。
しかし、前のブログでも書きましたが、
多様化・複雑化しているポストモダン社会に逆行する教育改革の推進で、
学校現場がますますマニュアル化され、
生徒の個性が埋没化されるパラドックス的傾向があるため、
討議空間づくりを構築させていくのは並大抵なことではありません。
それを考えると、授業の中で、HRの中で、他の教科外活動の中においての、
教師の力量や教師同士の強い同僚性がいかに重要であるが見えてきます。
加えて、討議空間や公共性ばかりを意識してしまうと、
いざ社会に出たときの順応性や、
個性をこだわりすぎて協調性が失われる危険性もはらんでいるため、
うまく生徒の個性が尊重され生かされる自由主義的空間と、
ある程度の統一性とが、うまく折り合った世界が、
今の学校現場には必要だと感じました。
ちなみに討議空間を開く方法として、
下記の4点を述べています。
1.問題設定の政治(決定と表現したほうがいいのかも)
2.自己の位置性(ポジショナリティ)に気づく
3.討議のライバルとしての他者
4.他者の意見に応答する
これは、最もな指摘であるのは確かなのですが、
正直な話、人間として生きていくためには当然のファクターなんですよね。
裏返すと、当然のファクターが成立していない学校現場や家庭
・・・つまりは子どもたち。
いかに今の現代社会の教育が深い深い病理に侵されているのだなと、少し悲しくなりました。
ただ、その根本が複雑化しているように見えて、実は単純なものなんですよね。
だから実践や応答次第では、子どもたちが大いに救われる可能性がある。
そういう面では、楽観的に考えて大丈夫。
前向きにいきましょう。
高生研全国大会初日、講演が終わった後の全体会をレポートします。
全体会および基調発題
討議空間づくり ~教育と政治の間に~
え~。正直政治教育という概念が未だに理解しきれていないので、
レポートらしいものにはならなそうですが、
私が感じたことを書きたいと思います。
基調の文章のなかで、
「討議空間づくりでは、政治を『複数性の政治』と考える。」
「討議空間づくり実践は、多様化・複雑化しているポストモダン社会の中で、
複数性・異質性に開かれた学校・社会を目指し、
それに付随する問題・課題に取り込む教育政治(政治教育)であり、
その核に『討議空間』を置く実践構想なのである。」
と、定義されています。
つまり、人間関係の構築が難しくなっている現代社会および学校現場に、
いやむしろ人間関係が作られていても、
本音や批判的に対話ができなくなっているなれそめ的な状態を、
強固なものにするためには、討議空間づくりが非常に重要なのです。
しかし、前のブログでも書きましたが、
多様化・複雑化しているポストモダン社会に逆行する教育改革の推進で、
学校現場がますますマニュアル化され、
生徒の個性が埋没化されるパラドックス的傾向があるため、
討議空間づくりを構築させていくのは並大抵なことではありません。
それを考えると、授業の中で、HRの中で、他の教科外活動の中においての、
教師の力量や教師同士の強い同僚性がいかに重要であるが見えてきます。
加えて、討議空間や公共性ばかりを意識してしまうと、
いざ社会に出たときの順応性や、
個性をこだわりすぎて協調性が失われる危険性もはらんでいるため、
うまく生徒の個性が尊重され生かされる自由主義的空間と、
ある程度の統一性とが、うまく折り合った世界が、
今の学校現場には必要だと感じました。
ちなみに討議空間を開く方法として、
下記の4点を述べています。
1.問題設定の政治(決定と表現したほうがいいのかも)
2.自己の位置性(ポジショナリティ)に気づく
3.討議のライバルとしての他者
4.他者の意見に応答する
これは、最もな指摘であるのは確かなのですが、
正直な話、人間として生きていくためには当然のファクターなんですよね。
裏返すと、当然のファクターが成立していない学校現場や家庭
・・・つまりは子どもたち。
いかに今の現代社会の教育が深い深い病理に侵されているのだなと、少し悲しくなりました。
ただ、その根本が複雑化しているように見えて、実は単純なものなんですよね。
だから実践や応答次第では、子どもたちが大いに救われる可能性がある。
そういう面では、楽観的に考えて大丈夫。
前向きにいきましょう。

