2011年09月29日
学会発表を通して考えたこと(2011生活指導学会)
日本生活指導学会第29回大会 発表原稿要旨
http://edush.ti-da.net/e3729913.html
↑の続き。
箇条書きになってしまいましたが、自分の記録という感じでの更新ですので、ご容赦を。
日本生活指導学会第29回大会・発表レジュメは以下からどうぞ。
http://www.geocities.jp/quinella/2011jasg-hirochi.pdf
フロアからの指摘や師匠からの指導などを含めた、今後の(修論)課題として考えたこと。
・前提として
―社会問題(生きづらさの問題)およびバウマンが述べている社会理論をざっくりと捉えすぎている
―テーマ(立論)がどこにあるのかが不明確
―実践に即したり落としていないので、理論が抽象的なものにとどまっている
・バウマン理論の精読
―コミュニティ論を公・共・私の観点から整理すること
―古いコミュニティと新しいコミュニティそれぞれの論じている部分を区別すること
―ペグ・コミュニティの具体例を明らかにすること
―ペグ・コミュニティが公的なものへと導き出すためにはどうしていくか(だからこそアソシエーションを導入してみたのだが、論として浅く、突っ込まれていた)を明確にすること
―コミュニティ理論がバウマンのなかで重要という結論を導き出していくこと
・生活指導においての公・共・私の関係を捉えること
以下は、上記のことに加えて思ったこと。
・「生きづらさ」に関して
私は、バウマン理論にしたがって、リキッド・モダン社会(現代社会)は「生きづらさ」を伴った社会と位置づけたが、コメンテーターから、むしろこのリキッド(流動的)な状況を、「生きやすさ」(チャンス)ではないか、という指摘があった。それは、何をしても個人の責任に帰せられるという背景があるとはいえ、選択が自由であるから、自分があらゆることをやりたいようにできる。つまりストレーター秩序や既存のライフスタイルを超えた生き方を追求できる、という側面からである。確かに、私自身の人生を振り返ってみても、現代がリキッドであるから、いろんな転落や挫折を経験しても、今は自分が思う道に進むことができ、社会的にもそれなりな立場を得つつある(今後どうなるかまだ不確定ではあるものの)状態になったのであって、ソリッドのなかで生きていたならば、私はとうに社会から排除、それこそアンダークラスやゲットーに陥っていたであろう。そういった意味では、まずは私自身の思想として多様な生き方を受け入れることが必要であることはいうまでもない。(そういうスタンスはこれまでも取ってきたが、振り返ると若干の反省が浮き彫りになる)だが、現在の状況下において「生きやすさ」とするためには、やはり湯浅誠氏が述べているように、「五重の排除」の状態ではなく、あらゆる「溜め」を持っている(いる)必要があり、貧困に陥っている大衆にはそれが達成されていない。だから、やはり私は、現在の状況を「生きづらさ」と捉えて、修論に向けて論を進めていきたいと思う。
「生きづらさ」への着目として、フロアからの指摘があったように、教育から社会を変える視点というよりも、社会を根本的に問いなおす姿勢や視点が必要であることはいうまでもない。しかしながら、目の前の教育現場をおろそかにはできないから「社会をとらえなおす視点」「子どもたちをとらえなおす視点」の両方から考察することが大切だと思う。だからこそ、アソシエーションを提起したのだが、ここも修論ではもっと詰めていきたい。
・バウマン理論に関して
バウマン理論の前提として、リキッドでは社会の中で大衆がみな生き抜くことができないから、ソリッドに再帰するべきという視点がある。これは、ソリッドは、ナチスのような事例があったものの、大衆みなが幸福に生活できる可能性をもっていたからだとしている。だが、ソリッドに回帰するというよりも(することは困難だろうと他方で考えているのだろう)、リキッドに即した社会創造、人々のつながりを考察したからこそ、共和制・自立的社会・アゴラの創造をバウマンは提案しているのではないだろうか(もちろんこれも回帰しているのかもしれないが)。学会での反省のひとつとして、このバウマンの提案を最後省略してしまったことにある。この点で、まだバウマン理論を理解しきれていないという自戒を強く持っている。もちろん、バウマン理論は、抽象度が高く、かつ論理が右往左往する傾向にある。これは、バウマンがリキッド・モダン社会だから、恣意的にリキッドな表現技法を使っているのであろう。だから、解釈の仕方も(極端なとらえ方のミスはのぞいて)多様であってもいいのかもしれない。だから、うまく日本社会に活用できるような論理構成が求められる。
・物事を単純視すること、複層視すること、それぞれのジレンマ
レジュメ内でも述べたことだが、現代はリキッドであるから、何事に対してもフレキシブルであることが今必要不可欠である。しかし、残念ながら人間はそんなに器用な生き物ではないと感じている。だから、リキッドであることを前提としても、どうしても論が単純化(一間か)してしまい、逆にリキッドに述べようとすると力業になってしまい「じゃあ、何が言いたいの?!」という結論に陥る。もちろん、私自身のちから不足がそれを示していることは言うまでもないが、結局、提案や指摘というものは単純化(一元化)なもの(そうしないとはっきりと伝わらないもの)なのかもしれないと感じた。だとすると、提案において大切なことは、「見通しがあること」「可能性があること」「一元的なんだけれど、とらえ方によって多様な変革や複層視できる期待があること」などなのではないだろうか。これも修論につなげていきたい。
Posted by ヒロチ at 12:31│Comments(1)│TrackBack(0)
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この記事へのコメント
とうとうデ コ ログからカラコンが発売されるみたいだよ!
Posted by デコログ at 2012年01月23日 16:33

